「二世」という言葉には、さまざまな意味が込められています。摂理観から見た「二世」、血統的観点から見た「二世」、時代区分から見た「二世」……。したがって、「二世圏時代」という言葉も、語る側の視点によって意味合いは異なります。
さらに、真の父母様が「二世」と口にされるときには、祝福を受けた「一世」の信仰と精誠の視点から語られることも多くあります。
真のお母様はかつてご来日の際に、以下のように語られました。
「今後、私たちが進んでいくときに、一世と二世を分けていくことはできません。二世が中心になったとしても、一世を無視してはなりません。一世に侍って、共に進んでいく方向へと私たちは行動しなければなりません。そのような点において、感謝する心で……真の父母様のみ言どおりに生きられる自分をつくりなさいということです」(『トゥディズ・ワールド ジャパン』2013年11月号16ページ)
摂理観から見た「二世」
アダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭の摂理に見られるように、神とサタンの一線に立つ家庭は、一世と二世の心情的一体化が問われます。その心の動きには、歴史を左右するほどに重大な摂理がかかっています。神とサタンが復帰摂理の主導権を争う中で、自分の心が自分のみの次元にとどまらず、実に「公的」な位置づけの中にあることが分かります。
この家庭摂理の中で「二世」の位置に立つ子女の使命は、父母である「一世」との一体化です。子女は、父母の行動が理解できなくても、子女が不信してしまうような行動を父母が執ったとしても、その父母を立てて摂理を進める神様が背後にいらっしゃることを確信して、父母と一つとなるしか、神様の前に出る道がないことを強く自覚しなければなりません。
父母は完成人間ではありません。人間的に見れば、多くの不足な側面も持ち合わせていることでしょう。それでも大切なことは、摂理の主人であられる神様が父母を立てて摂理を進めていらっしゃるという事実です。「一世」である父母を神様が立てているという信仰を持って侍ることを通して、摂理的な悟りを得ることも多いでしょう。
血統的観点から見た「二世」
「生命より貴く、愛よりも大切なものが血統です。生命と愛が一つになって創造されるものが血統なのです。このうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛と生命と血統のうち、その結実は血統だということです。神様の血統の中には真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きているのです」(天一国経典『天聖経』1394ページ)
真の父母様は、生涯をかけて血統の大切さを指導してくださいました。祝福二世という言葉は、言うまでもなく「血統」の価値を含めた表現です。この血統には、天の父母様(神様)と一つとなった夫婦の愛が原点にあります。その愛の種が生命を生み出し、永遠に連結される血統へと連なっていくのです。この血統を通してこそ、父母の心情が相続されていくのです。
この観点から見るとき、「二世」の価値は、「一世」の天の父母様への絶対的信仰があってこそのものであり、「二世」を貴ぶときは、「一世」の信仰を貴ぶ前提があることを見失ってはいけません。
時代区分から見た「二世」
時がたち、年を重ねれば、二世時代はいずれ必ずやってきます。俗に言う、世代交代です。そのときに問われる内容は、「伝統」と「革新」のバランスです。守るべき伝統を死守し、併せて、時代と環境の変化とともにイノベーションを追求する果敢な取り組みが求められます。
世代交代は、神様が、摂理の中心に立てる世代を交代させることでもあります。一世は今まで神様が守り導いてくださったことへの感謝を失わず、その神様が二世世代を立てて摂理を牽引しようとされる事実に謙虚に向き合い、経験値を生かしながら新しい指導者をしっかり支えていく姿勢が求められます。それが神様の願いです。
摂理を導かれる主体はあくまでも神様であることを忘れてはなりません。世代交代しても、侍るべき中心に臨在されるのは天の父母様です。
「私は皆さんたちに、生活の中で私たちが天の父母様に侍って実践する生活を、天一国経典『天聖経』を通して訓読しながら実践してくれることを願います。神霊と真理で、み言があふれ、み言が絶えない、真の愛を実践する教会になり、そのような社会になり、氏族になり、国家になるとすれば、一つの世界を成し遂げるのにおいて、どうなるでしょうか? 『私たちの手でなすことができる』。そうですね?」(『トゥディズ・ワールド ジャパン』2013年11月号16ページ)