父母の願いに向き合う子女として

真のご家庭が背負われた宿命

 かつて、文孝進様が、真の子女様たちの苦悩を話されたことがありました。米国で教会員たちが「ムーニー」として揶揄され、迫害の嵐の中にあったとき、実子である子女様たちも同じように、いや、それ以上の苦しい心情で過ごしていらっしゃったのです。
 学校の友人関係においては、とても言葉に表すことができない、葛藤と苦悩が続きました。また、ご家庭においては、実のご両親である真の父母様とお会いすることさえ、なかなかできません。久しぶりにお会いすることになっても、真の父母様の周りにはいつも幹部の方々が集まっていて、とても子女様たちが割り込む隙はありませんでした。たとえ向き合う時間が取れたとしても、米国で育った子女様たちと真の父母様との間には、言語の壁が立ちはだかります。親子といえども、十分には言葉が通じないもどかしさも抱えておられたのです。
 そんな中、成長とともに、血統のつながった実のお父さん、お母さんを「真の父母」という言葉で受け入れ直さなければならないという新たな苦悩が生まれました。「お父さん! お母さん!」と呼びかければ呼びかけるほど、心情的に近づくのが親子です。しかし、子女様たちは、「真の父母様」と呼べば呼ぶほど、親が遠い存在になっていくというのです。
 堕落の血統圏に生まれた私たちは、祈りのときも、決意するときも、お会いしたときも、「真の父母様」と呼べば呼ぶほど、心情的に近づき、深い愛と温かい赦しの心情に包まれる境地を経験しますが、実の血統圏にある子女様たちにとっては、全く正反対なのです。血のつながった実の親を、人類の真の父母として受け入れ直していく心のプロセスは、寂しさと孤独感の伴う、厳しい宿命の道なのです。

求められる、絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 真の父母様が、愛する子女様たちを犠牲にしながら、カイン圏の私たちに、より投入し、多くの時間を費やしてこられたことは、周知の事実です。それが復帰の蕩減原則であると、言葉で語るのは簡単かもしれません。しかし、子女様たちの立場は、私たちが通過することもできない道であり、その苦悩を簡単に論ずることも、はばかられる世界かと思います。
 私たちはみ言を学び、真の父母様の生涯をお聞きして、そのお方をメシヤ、救世主、再臨主として受け入れ、人生を賭して歩んできました。そして、祝福を通して子女の立場に立つことを許され、実子圏の心情を復帰できるように、日々挑戦しています。そのゴールは、「信仰」という言葉も必要のない、永遠なる親子の心情圏を復帰することです。正に、孝情の復帰です。
 真の子女様は、私たちとは全く逆のプロセスが求められているのだと思います。「アッパ、オンマ(お父さん、お母さん)」と、ごく普通に呼べる目の前の親を、蕩減を背負われた「人類の真の父母」として受け入れ、その前に子女として立つことを余儀なくされたのです。
 そこにいらっしゃるのは、単なる親ではなく、蕩減の道を歩まれる人類の真の父母であり、救世主であり、メシヤです。真の子女様は、私たちが通過した試練よりもはるかに重い心情の十字架を背負われているのだと思います。

実子の基準を追い求めて

 一九九七年十月十三日、真のお父様は、「訓読会」を制定(命名)されました。その頃、お父様は、アベル圏の立場である子女様たちを犠牲にしてこられた不憫な心情を吐露されました。そして、カイン圏を愛し、蕩減基準を勝利的に立てられた基台の上で、これからは子女様に直接み言を語ることが許される時代が来た、という内容のみ言を語られました。摂理の背後では、常にアベル圏として子女様が祭物となり、人類に対するサタンの讒訴条件を軽減してこられた、真のご家庭の犠牲があったのです。
 その間、子女様は親子の心情関係を求めたくても、摂理的な真の父母と真の子女の関係を要求され続けていました。子女様にも、「真の父母」に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従の信仰基準が求められていたのです。結果として、その求められる信仰基準から大きく外れ、背を向けている方もいるという現状があることは、至極残念なことです。それが真の父母様の心の痛みであることは言うまでもありません。
 それでも、真の父母様と真の子女との間に、実の親子としての、永遠に切れることのない血縁関係があることは大きな希望です。血統的心情関係の回復とともに、真の父母様が、その真の子女たちの心に、「人類の唯一なる真の父母」としても安着する日を祈りながら、私たちも子女としての摂理的使命を果たしてまいりましょう。