祝福は奇跡的恩恵をもたらす神のみ業

祝福は奇跡的恩恵をもたらす神のみ業

 二〇二一年十二月十二日、花巻家庭教会(岩手教区)に天の父母様聖会の方相逸・神日本大陸会長夫妻を迎えて、「岩手教区特別礼拝」が行われました。説教に立った方相逸・大陸会長は、日本人に対して恨みを抱いていた父親の心が変化したことなど、自らの体験を踏まえて、真の父母様による祝福の恩恵を証ししました。(文責・編集部)

 尊敬する岩手教区の食口の皆さん、お会いできてうれしいです。
 この場に臨むに当たり、何を話そうかとずっと考えてきました。真の父母様が進めておられる摂理、私たちに託された使命、家庭連合の五大方針などの候補があったのですが、サモニム(藤之原和代・大陸会長夫人)の証し(26ページ)を聞くうちに考えが固まりました。実は、サモニムの証しの最中に左胸が痛くなり、岩手に縁のある父がここに来ているようにも感じました。それで私も、父のことを含め、証しをしようと思います。

自慢の孝行息子が統一教会に

 私は六人兄弟で、兄が二人、姉が二人、弟が一人います。私は幼い頃から親や兄姉を深く敬っていました。村の人々が、「相逸は孝行息子の模範だね」と言ってくれるほどでした。そして、通りを歩いていて、私よりも年上の人を見かけると、「こんにちは!」と元気よく挨拶しました。挨拶の天才です。それは、七たび身を地にかがめてエサウに近づいたヤコブ以上です。母は「おまえは犬にも挨拶をする」と笑いました(笑い)。
 私は統一教会(家庭連合)に導かれるまで、キリスト教会に通っていました。姉もキリスト教会の信徒だったのですが、私が統一教会に入ったことを知ると、父に、「相逸が統一教会という悪い宗教団体に入って、頭がおかしくなってしまった。文鮮明という教祖を『真のお父様』と呼んで、生んで育ててくれたお父さんのことを『偽りの父』と呼ぶんだよ」と、統一教会の悪口を吹き込みました。父はとてもショックを受け、私にすぐにやめるように言いました。
 ある日のことです。父はガラスコップに農薬を注ぎ、「おまえが統一教会に行くんだったら、私はこれを飲む。どうする」と迫りました。私の信仰は全く揺らぎませんでしたが、大切な父親を傷つけることはできません。私はしかたなく、「統一教会はやめますので、こんなものは下げてください」と言う以外にありませんでした。
 私は、韓国南部の中心都市、光州にある大学に通っていました。実家と光州は百キロぐらい離れています。親がめったに訪ねてこないこともあり、私は一年生で伝道されてから四年間、カープの学舎で暮らしました。ただ、毎月、帰省するたびに、父から「統一教会はやめたのか?」と聞かれました。
 大学卒業後、私は木浦で学舎長を務めることになりました。学生が誰もいない開拓学舎です。その頃、父とこんなやり取りがありました。「大学も卒業したし、どこに就職するの?」「木浦にある会社に就職します」「名前は?」「カープといいます」(笑い)。父は、カープのことまでは知らなかったのです。

マッチングを迎える前に見た夢

 少し話は飛びますが、私が祝福を受ける前後の話をしようと思います。
 ある日、「龍仁(一和メッコール工場)で真の父母様がマッチングを行われる」という連絡を受けました。私は、祝福を授かるには、これまで以上に精誠を捧げなければならないと感じ、その日は、ろうそくをともして祈り、敬礼を捧げ、み言を大きな声で訓読しました。すると、その夜、夢を見たのです。
 たくさんの人が集まっている所に、真のお父様が来られました。お父様は、「これからマッチングをしてあげよう。ただし、条件が一つある」とおっしゃいました。皆がじっと耳を傾けます。お父様は遠くの目印になるものを指して、「あれが見えるか。あそこまで走って戻ってきなさい。早く着いた者からマッチングしてあげよう」とおっしゃいました。
 私は学生時代から運動に自信があったので、「やっぱりお父様は、私のことをよくご存じだ」とうれしくなりました。ところが、真のお父様の「走れ!」の合図で皆が一斉に走り出し、戻ってくると、私はビリだったのです。「えっ、そんなに足の速い人ばかりいるの……」と言葉を失いました。お父様は一位、二位、三位の人をマッチングし、「明日また、ここに集まりなさい」とおっしゃいました。
 夢から覚め、その日は一日中、複雑な気持ちで過ごしました。「今回、祝福は無理かもしれない……」。気持ちは沈み込みました。私は、ろうそく一本では精誠が足りないと考え、二本立てて祈り、その夜は胸の上に『原理講論』を置いて寝ました。すると、前夜と同じ場面が夢に現れたのです。
 真のお父様が、「全員集まっているか」と尋ねると、皆が「はい!」と元気よく答えました。お父様は、「きのうと同じように走るんだよ。一位、二位、三位だけ、マッチングしてあげるからね」とおっしゃり、スタートの号令をかけられました。私は今度こそ一位を取れると確信し、ダーッと勢いよく走り始めました。しかし、またビリだったのです。
 その日は、全く仕事が手につきませんでした。祝福を受けるのは、こんなに難しいことなのかと途方に暮れました。私は、さらなる精誠を捧げようと思い、み言に囲まれながら寝ることにしました。百冊以上ある真のお父様のみ言選集を並べて囲いをつくり、その中で『原理講論』を胸の上に置いて寝たのです。
 その夜も同じ夢を見ました。私は会場のいちばん後ろに座っており、こんな所から走ったら一位になれないと焦りました。ところがそのとき、真のお父様が「回れ右! 走れ!」とおっしゃったのです。絶好のチャンスです。私はこの機会を逃すまいと全力で走りました。すると、断トツの一位だったのです。お父様は「きょうは、この人だけ祝福してあげよう」とおっしゃり、一人の女性を連れてこられました。その方がサモニムだったのです! 私たちは真の父母様の後ろに並び、記念写真を撮っていただきました(拍手)。

龍仁のマッチング会場での出来事

 ここからは、実際のマッチング会場での出来事です。私は前から三列目ぐらいに座りました。真のお父様は時間をかけてみ言を語ってくださり、愛情をたっぷり注いでくださいました。
 ところが、男性候補者の中には、み言に飽きて、ひそひそ話をする者もいたのです。その人たちは女性候補者たちのほうをチラチラ見て、「あの人がかわいいね」「スタイルがいい」などと話していました。口にはしなくても、〝お父様、み言はもう十分です。早くマッチングをしてください〟、そのように思った人もたくさんいたでしょう。
 私はトイレに行きたくなりました。しかし、会場は候補者で〝すし詰め状態〟になっているので、一度、その場を離れたら戻ってくることはできません。さんざん迷いましたが、しかたありません。私は人波をかき分けて後ろに移動し、会場から出ようとしたとき、マッチングが始まったのです。時すでに遅し、前に行くことはできません。カップルが一組決まるたびに大きな拍手が起きました。私は、「夢と全然違うじゃないか!」と思いました。
 すると、真のお父様が壇上から下りて一人の女性の腕をつかみ、行ったり来たりされているようでした。ようすをよく見たい思いにかられ、前にいた男性に、「ちょっと肩を貸してもらえる?」と頼みました。彼が「いいよ」と言ってくれたので、私は彼の肩に手を置き、勢いよくジャンプして体を持ち上げました。その瞬間、お父様が後ろに向けて指を指されたのです。二、三十人の男性が、「私?」と思い、一人ずつ手を挙げていきました。お父様は、「おまえじゃない。おまえじゃない」と打ち消していかれ、私がそっと手を挙げると、「前に出てきなさい」とおっしゃいました。そして、マッチングしてくださったのです。
 その女性は、正に夢で見た方でした。

真のお父様が大笑いされた証し

 六五〇〇双では写真マッチングも行われました。時間が間に合わなくて、ファクスで写真を送った人もいたのですが、今よりはファクスの性能がだいぶ劣るでしょう。ガッガッガッ、ピー、ガガガガガと送られてきても、顔が伸びたり縮んだりして実物とかけ離れたものや、はなはだしくは、人に見えないものさえありました。それでも、真の父母様を絶対的に信じて祝福を受けたのが、六五〇〇双の偉大なカップルたちです(拍手)。
 こんな話もあります。真のお父様がマッチングをされているときに写真を一枚落とされました。長時間となり、握力もなくなっておられたのだと思います。その落ちた写真のそばに座っていた姉妹は気になってしかたがありません。お父様、写真、お父様、写真と目を行ったり来たりさせたあげく、勇気を出してお父様に写真が落ちたことをお伝えしました。するとお父様は、「それはあなたのものだよ」とおっしゃったのです。しかし、姉妹には落としたとしか思えません。何度かお父様に食い下がりましたが、やはり「あなたのものだ」ということで受け取りました。それでも「落とした写真なのに……」と心は葛藤し、一週間、写真に写った男性を見ることができなかったそうです。そして、腹をくくって写真を見たとき、自分が思い描いた理想の男性がそこにいたのです。姉妹は大喜びしました。その証しがお父様にも届き、お父様は大笑いされたそうです。
 私は、真のお父様がなぜあれほど早くマッチングできるのか気になり、韓国の家庭局に尋ねたことがあります。その回答によると、お父様がマッチング用の写真を持たれた瞬間、その相手になる人にぱっと光の柱が立つそうです。霊人たちを総動員して行われているということでした。一般の人には、「そんなのおかしい」と思えるかもしれませんが、私たち祝福家庭は、神のみ業による奇跡的出会いを果たしているのです。

統一教会の信仰と日本人の妻のことを父に伝える

 六五〇〇双の祝福後、真の父母様は韓日・日韓のカップルたちに三泊四日の時間を下さり、相手を実家に紹介しにいくよう指導されました。私は、「今、統一教会の信仰と日本人の妻のことをお父さんに伝えないと、永遠に難しいかもしれない」と思い、決意を固めました。
 龍仁の会場から実家(全羅南道・順天)に電話すると長兄が出ました。事情を伝えると、「日本人と結婚するだと? 親にも知らせず、結婚式も終わったとは何事だ!」とカンカンに怒りました。ソウル駅でもう一度、電話をしました。電話に出た長兄に、「今、ソウル駅です。今から順天に向かいます」と伝えると、「知るか! 切るぞ」と拒絶されました。
 列車に乗り、朝五時頃、順天に着きました。電話をすると、父が出ました。長兄から、おおまかな話は伝わっていたのでしょう。父の怒りは相当なもので、「絶対に家に来るな! おまえは籍から抜く。もう親子ではない!」とどなられました。
 バスターミナルのある家の近くの市場まで、兄嫁がようすを見にきてくれました。兄嫁は、韓服を着たサモニムを見て少し安心したようすでした。「韓国人みたいだね。体も大きいし、この人だったら、お父さんも会ってくれるかもしれない。反対されてもしょうがない。とにかく行こう」と言って、家に連れていってくれたのです。
 家に着くと、門の前に、父、母、兄が待ち構えていました。父は激高し、母は泣き、長兄は「このやろう」と私を蹴りました。そうこうしているうちに、近所の人が何事かと集まってきたのです。周りの目が気になった父は、しかたなく、私たちを家に上げてくれました。
 父はサモニムに、「あなたは日本人だろう! 日本人は本当に悪いやつらだ。私が岩手でどれだけ苦労したか……」と恨み言をぶつけました。サモニムは、「すみません」と謝るばかりでした。父は私に、「おまえは、この人と結婚して、本当に幸せにする自信があるのか」と聞きました。私は、「あります! 私が責任を持って幸せにします」と力いっぱい答えました。父と母は「アイゴー。アイゴー」と嘆きながら、家の外に出ていってしまいました。

人の心に積もった恨みを解かす真の父母様の祝福の偉大さ

 第二次世界大戦中、父は徴用工として岩手の炭鉱で働いていました。そこで死ぬような目に遭い、命の危険を感じて逃げ出したのです。父はその体験談を家族や友人に事あるごとに話してきました。
 私が子供の頃、家の手伝いを頼まれて嫌な顔をすると、炭鉱や逃走の際の苦労話をし始め、「こんなの仕事に入らない」と言いました。岩手から下関まで歩いたといっても、幼い私には、渋谷から新宿ぐらいにしか聞こえないわけです。全く心に響きません。父がこの話をするたびに、家族は皆、「またか」と思って、だんだん取り合わなくなりました。
 ところが、サモニムはいつも、父の話を泣きながら聞くのです。当然、岩手から下関までどれほど遠いかも分かるでしょう。誰も聞いてくれなかった話を、涙をポロポロと流して耳を傾けてくれる人が現れたのです。父は、最高の話し相手を得ることができました。
 韓国ではお正月やお盆を迎えると、子供たちが親元に集まります。嫁たちは一日中、休む間もなく食事の準備などをしなければならないのですが、父はサモニムに「あなたはそんなことをしなくていいから、私のそばに座って話を聞きなさい」と言って同じ話を繰り返しました。
 あるときは、電話をかけてきて、「相逸、家に帰ってくる用事はないのか?」と聞くので、私が「ない」と答えると、「それなら、嫁だけでいいから来させなさい」と言うのです。実家に行って戻ってきたサモニムに、どんな用だったのか尋ねると、やっぱり〝岩手の話〟でした(笑い)。それが、一年、二年、三年、ずっと続きました。
 父には、娘が二人、嫁が四人いますが、いちばん心が通じたのはサモニムです。サモニムは、私よりも父から愛されたでしょう。私は、父から岩手の話を聞いても、それが右耳から左耳に流れていくだけでした。サモニムを通して、その内容を詳しく理解したのです。
 父が岩手から逃げる途中のエピソードを一つ紹介します。
 名古屋か大阪あたりでしょうか、おなかがすいてどうしようもなくて、ある民家を訪ねたそうです。すると、七十代ぐらいのおばあさんが出てきて、父をかわいそうに思い、家に上げてくれました。そして、「ちょうど風呂が沸いているから入りなさい。服も全部脱いで。うちの人と背格好が同じだわ」と言いました。父が風呂から出ると、着替えとご飯が準備してあり、「早く食べなさい。きょうはゆっくり休んでいきなさい」と言って泊まらせてくれたのです。翌日、父がお礼を言って家を出ようとすると、おばあさんは背広を一着とお小遣いを持たせてくれました。
 父は、サモニムと話しているうちに、日本人との良い思い出がよみがえってきたようです。「今考えてみたら、助けてくれた人は日本人が多かった。あのおばあさんに会いたいなあ。きっと、天国に行かれたでしょう。日本人にもいい人が多いよ……」。恨みで覆われ、傷ついていた父の心は、サモニムによって解放されていったのです(拍手)。
 私が父とどれだけ深い親子関係を築いても、父の心に積もった日本に対する恨みは解けなかったでしょう。父のような韓国人が、まだたくさんいます。その方たちの妻や息子、娘たちでは、その恨みを解くことはできません。
 歴代の韓国の大統領や日本の首相がいくら会談を重ねても、歴史問題の解決は簡単ではありません。しかし、真の父母様は韓日・日韓の交叉祝福を通して、それを成してこられました。そして、国際祝福を通して、世界の国境線を撤廃しようとしてこられたのです。それが、どれほど偉大なことでしょうか。私は、韓国から国会議員団を日本に迎え、日本の国会議員たちと交流する場に同席することがあります。そのときは必ず父のことを証しするのですが、誰もが感動し、「文鮮明・韓鶴子総裁は本当に素晴らしい」と口々に感想を述べています。

外国に住んでみないと分からない苦労

 二〇一八年十月、真のお母様は韓国に嫁いだ日本人女性約四千人を清平の天城旺臨宮殿に迎えて、特別集会を持たれました。お母様が、「韓国にお嫁に来て大変だったでしょう。天の父母様(神様)と真の父母様の願う理想世界を築くために、本当によく我慢してきてくれました」と慰労されると、日本人女性たちは感動の涙を流しました。
 そして、その日に誕生日だった八人を壇上に呼ばれ、「夫は誕生日を祝ってくれたの? プレゼントをもらったの?」とお尋ねになりました。答えに困っている女性たちに向かって、「私もね、お父様と誕生日が同じだから、お父様から、『おめでとう』と言ってもらったことがない気がするわ」とユーモラスにおっしゃり、その場を和んだ雰囲気にしてくださいました。
 韓国に住む日本人は皆、苦労しています。日本に住む韓国人も同じです。国際結婚の大変さは、経験した人でなければ分かりません。私は日本に来て二十三年になりますが、いまだにキムチがないと、ご飯が喉を通らないのです。それぐらいキムチが大好きです。習慣というものは恐ろしいですね。
 葛飾家庭教会(北東京教区)で教会長を務めていたときのことです。夜の十二時ぐらいに教会から自宅まで自転車に乗って帰っていると、警察官に止められました。「あなたの自転車ですか?」と尋ねられ、防犯登録番号を確認された後、「中国人ですか?」と聞かれました。韓国人であることを伝え、身分証を提示したとき、問題が起きました。
 教会から借りていた自転車が、私の名前で防犯登録をされていなかったのです。その警察官は、大きな声で「これはあなたのものではないでしょう!」と詰め寄ってきました。私は、教会から借りていることを伝え、登録に使われていると思われる教会スタッフの名前を、婦人代表から順番に挙げていきました。しかし、誰も該当しなかったのです。
 私を囲む警察官が増えました。私は腕を背中の後ろで固められ、「いったん警察署まで行こう」と言われました。私は、「警察署には行くから、誰の名前で登録されているのか教えてください」と訴えました。すると、「藤之原さんを知っているか?」と尋ねられました。教会は、サモニムの名前で自転車の防犯登録をしていたのです(笑い)。
 サモニムに連絡をして事なきを得ましたが、それ以来、道を歩いていて、前から警察官が近づいてくると、取り調べをされるのではないかと不安に襲われるようになりました。何年たとうが、外国に住むことは神経を使うものなのです。

人を生かす生命の水があふれる地に

 最後に、「岩手」という文字について考えてみます。聖書で「岩」はキリストであるイエス様を象徴します。モーセは杖をもって磐石を打ち、イスラエル民族のために水を出しました。岩手の「手」はモーセの手です。この地から人を生かす生命の水が出てくるということでしょう。私はそのように解釈しました。
 岩手県は山口県、東京都に続いて、首相を多く輩出していますね。少ない人口から四人の首相が現れたということですから、天の祝福を受けた地であることは間違いありません(拍手)。
 現在、岩手教区には四つの教会があり、韓国人牧会者二人、日本人牧会者二人で、婦人代表も韓国人、日本人が二人ずつです。韓日一体化のための深い意味があるように思います。
 きょうの会場になった花巻家庭教会は大きい建物ですね。毎週、ここが満員になる礼拝が行われるように願います。この集会で使った椅子は片付けず、礼拝のときに空席が目立つようであれば、熊でもうさぎでも、ぬいぐるみを置いてください(笑い)。そこに伝道対象者の名前を書き、共に礼拝を捧げていると意識し続ければ、必ず現実になります。岩手教区の発展を祈念いたします。

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