シリーズ会長メッセージ 第87回「見落としてはならない信仰生活の核心テーマ」

全国の天の父母様聖会世界平和統一家庭連合の会員、食口、並びに祝福家庭の皆様、こんにちは。U-ONE TV の毎月の会長メッセージをお届けしたいと思います。きょうは9月度における会長メッセージをお届けしたいと思います。

 

今回は特に、行事の報告を中心とした解説ではなくて、私たちが天の父母様聖会のもとで、真の父母様に対してどのような信仰をもって歩んでいくべきなのか、また兄弟姉妹たちとの関係においてどのような心構えが必要なのか、最終的には、天寶入籍勝利家庭になるためにはどのような覚悟と決意が必要なのか、このような内容を中心として、「見落としてはならない信仰生活の核心テーマ」というタイトルでお話しをしてみたいと思います。

 

最初に、真のご父母様の今日までの私たち食口並びに祝福家庭に対する信仰指導の究極、最終的ゴールはどこかと、こう尋ねてみると、皆様もご存じのように、真のご父母様は常に神様第一主義、すなわち天の父母様第一主義を唱えて、私たちを指導してくださいました。

 

「先生は神のために死に、神のために生きる。先生がもし亡くなったら、『この男は神のために生き、神のために死んだ』、このようなせりふが先生の墓の上に刻まれていれば本望である」と、このようにおっしゃったこともございます。

それほどまでに、真のご父母様の生涯は、神様に始まり神様に終わる。違った表現をいたしますと、全人類を真のご父母様は神様につなげたい。

 

人類始祖アダム、エバの堕落によって、神様との親子の関係が断絶してしまって切れてしまった。その状態からどうやって人類が天の父母様、神様に戻ることができるのか。その仲保者がすなわち救世主、メシヤであります。

 

その意味におきまして、真のご父母様の私たちに対する信仰指導の究極は、「神に至れ。神に帰れ。そこにこそ希望がある」。これがお父様の私たちに対する一貫した信仰指導の究極、極意と、このように申し上げても過言ではないと思います。

 

お父様のみ言の一つを引用してみたいと思います。1975年7月13日、ニューヨークのベルベディアで語られたみ言でございます。『御旨と世界』の423ページから452ページにそのようなみ言がございます。その一か所だけ、ご紹介します。

 

「それで結論としては、理想的人間に向かって進むよりは神に帰れ、という結論が、ここに下されるのであります。だから、神に帰れというような、神に帰らなければ、人間は正しいことを生み出すことができないという結論になるのであります」

 

また、私が9月6日、日曜日の朝に『平和経』を訓読しておりまして、そこで出合いましたみ言の中に、このような箇所がございました。これは『平和経』の1243ページのちょうど真ん中辺であります。

 

「真の父母様は、血を流す道を通して地上に神様をお迎えする使命を遂行しているのです。真の父母様が十字架を背負うのは神様を地上にお迎えするためです」、このようにみ言を語ってくださっております。

 

すなわち、真のご父母様は私たちを常に神様につなげる。神様に至ることが私たちを導いてくださっている目的地、究極のゴールであると言って、過言ではありません。

 

また、お母様のみ言も同じであります。皆様もご存じのように、一貫して、最近のお母様のみ言は、「天の父母様に帰りなさい。人類77億の最低3分の1を天の父母様に侍る、そのような民にしたい」。これがお母様の最近のみ言であります。

 

天の父母様に帰らなければ、地球上の全ての難問題は、人間の知恵や努力だけでは絶対に解決しない。これが一貫して、最近、お母様が語っておられるニュアンスであります。

 

また、つい先日の文鮮明天地人真の父母天宙聖和8周年記念式におけるお母様のみ言がございました。すなわち、今月の9月4日に語られたみ言がございます。

 

「その道だけが、傾いた地球上に起きている全ての難問題を正しくバランスを取ることができる道は、ただ天の父母様聖会の中で真の父母のみ旨に従っていく道です」と、このように天の父母様聖会の中で、真の父母のみ旨に従っていく道、これが人類が全ての難問題を解決する唯一の道だと、語っておられます。

したがって、真のご父母様が私たちに教えてくださっている究極の教えの核心は、神に帰る。真の父母様の、私たちに対する最高の教えのエキスは、「神に帰れ、天の父母様に帰れ」であります。

 

ところが、その神様に帰る、天の父母様に帰る道が、率直に申し上げて簡単ではありません。私たちがどんなにお父様の願いが神に帰ることだと教えられても、実際に神様を正しく知ることは、私たち堕落人間にとっては簡単ではありません。結局、神様を人類に正しく教えてくださる方は、真のご父母様のみであるという結論に至るのであります。

 

ちょうど私が今、眼鏡を付けております。眼鏡を取ります。そうしますと、目の前のビデオカメラもおぼろげにしか見えません。私の視力が非常に低いだけに、ビデオカメラでさえも明確に見ることができません。

 

と同じように、私たち堕落人間がいくら神様を見ようとしても、それは眼鏡なくして神様を見るのと同じであります。つまり、自分なりに、自分の次元で、「神様のみ意を尋ねよう」「神様の願いは何だ」「神様の私たちに対する天命は何か」とどんなに尋ね求めてみても、それはおぼろげにしか分かりませんし、それぞれの個性や、あるいはそれぞれの人間によって通じる霊界の次元によって、神様というものの捉え方は実にまちまちであります。

 

したがって、同じ家庭連合といえども、残念ながら真のご父母様のその解釈、真の父母様による天の父母様に対する捉え方や解釈や解説を参考にしない限り、私たちは正確に神様のみ意や願いや、神様の心情世界を知ることができないという結論になるわけであります。

 

すなわち、この眼鏡の役割をする方が、まさしく真の父母様、ということになってまいります。

 

つまり、神様を知るためには、真の父母様にむしろ帰らなければならない。真のご父母様を知って初めて、真の父母様を通して、真の父母様という眼鏡を通して、神様のみ意を正確に知ることができる。このような結論に至るわけであります。

 

このことがはっきり分かっていれば、我が家庭連合からも、悲しい出来事でありますが、分派が発生することはありませんでした。真のご父母様を全ての判断の基準にする。真の父母様のみ言、真の父母様の願い、とりわけても、真の父母様のその都度その都度の具体的な、実体的なご指導なり、ご指示に従っていれば、絶対に分派というものは発生いたしません。

 

しかし、真のご父母様に対する、いわゆる中心性、それがはっきりしなければ、我が家庭連合といえども、神様のみ意や神様の願いに対する捉え方がまちまちなだけに、本当の意味での統一はあり得ないということになるわけであります。

表現を換えれば、真のご父母様のみが、家庭連合を中心として全世界の人類が一つになる道を提示する唯一の道である、という結論に至るわけであります。

 

さて、ここで違った角度からこの信仰という問題と、また、実体的な「侍る」という問題を、ちょっと深く掘り下げて考えてみたいと思います。

 

復帰摂理の勝敗の鍵というものを、『原理講論』の、とりわけても復帰原理の部分を読ませていただきますと、信仰基台と実体基台という概念が出てまいります。信仰基台で始まり、実体基台を形成して、初めてメシヤのための基台ができて、メシヤを迎えるというわけであります。

 

じゃあ、信仰基台とはいったい何でしょうか。この信仰基台の特徴をひとことで申し上げれば、信仰基台といいますのは、目に見えざる、しかし絶対的な次元で存在し給う天の父母様、神様に向かって、摂理の中心人物が何か信仰の条件を立てます。数理的な期間や数理的なその条件を中心とした信仰の条件を立てます。そして成立するわけであります。

 

例えば、ノアという人物は120年間にわたって神様の前に精誠の限りを尽くして、ノアの箱舟という摂理が始まりました。ノアの、神様に対する絶対信仰、それを条件として、ノアの箱舟、そして箱舟の審判が始まったわけであります。                                                                                                                                                                                                                        

しかし実体基台となると、これまた、どのような概念になるかと申しますと、実体基台は神様を中心として中心人物としてのアベル的な存在と、そしてその相対圏としてのカイン的存在、そのアベル的な存在とカイン的な存在との一体化、堕落性を脱ぐための蕩減条件を立てて、アベルとカインが一つとなるというのが、実体基台であります。

 

この復帰摂理歴史を分析してみますと、歴史は信仰基台を立て、実体基台を立て、そしてメシヤを迎えるための基台をつくる。この摂理がアダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、モーセ路程と、そしていよいよイエス様と続くわけであります。

 

一つ一つのアダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭の内容を詳しくお話しする時間がありませんが、結論を申し上げれば、信仰基台は何とか勝利するケースが多くございます。アダム家庭においても、アダムとエバが堕落したのち、アベルは中心人物として供え物を捧げました。しかし残念ながら、供え物を捧げたアベルと、その一体化しなければならない立場にあったカインが、実は一体化できなかった。一体化できるどころ、お兄さんであるカインは弟アベルを殺してしまった。これが人類歴史における最初の殺害事件と言っても過言ではありません。

 

そしてノア家庭においては、ノアは120年を通して見事にノアの箱舟を建てました。洪水審判も起きました。しかしその問題は、そののちに、その摂理の中心人物であったノアと、本来一体化しなければならないノアの家族、そのノアの家族の中でもいちばん中心的な立場に立っていたハムが、まずお父さんノアと一つにならなければいけない。ところが、このハムがお父さんと一つになることができなかった。信仰基台の勝利圏を相続して、実体基台の中心人物になるべきでありましたが、その位置に立つことができませんでした。

 

このように、信仰基台は勝利するんだけども、実体失敗する。こういうケースがどれほど多いか分かりません。

 

ヤコブとエサウの一体化は、実にまれな勝利の例と言わざるを得ません。モーセ路程においてもそうであります。モーセが信仰を立てた。しかしモーセとイスラエル民族がなかなか一つになれない。そのために、何十年もかかってしまう、というのが、モーセ路程の悲劇であります。

 

そして2000年前、イエス様のときもそうであります。イエス様は神様に信仰を立てる。でも、そのイエス様と洗礼ヨハネが一つになることができない。また、洗礼ヨハネが失敗したあと、弟子たちがイエス様と一つになることができない。結論的には、そのカイン、アベルの一体化が失敗して、イエス様が十字架の道を行かざるを得ませんでした。

 

真のご父母様においてもそうであります。天の父母様の前に、お父様もお母様も信仰を立てられます。でも、そのご父母様と私たちが一つになることができれば、摂理は早まるわけでありますが、その一つになれなかったぶんだけ摂理は延長し、摂理というものがどうしても遅れてしまう。

 

その意味において、改めて信仰基台と実体基台と特徴というものを少し分析してみますと、信仰基台は、絶対的な、揺るぎのない天の父母様、神様の前に相対的な人間が信仰を立てる。したがって、この相対的な人間さえ、縦的な信仰の闘いに勝利して、縦的な信仰をまっすぐ立てれば、信仰基台は勝利します。

 

ところが、実体基台は、アベルもカインも相対的な存在です。この、私たちの教会組織においてもそうであります。中心者たる牧会者とそれに従うメンバーたち、どちらも残念ながらまだまだ完成には至っていません。

 

したがって、牧会者にも堕落性がございます。メンバーにも堕落性がございます。この同じ堕落性同士が、まるで磁石のように反発をする。そうすることによって、この実体基台の一体化ができない。そのようにして、残念ながら牧会者の心ない言葉につまずいて、この道を離れる、そういう兄弟も現実におられます。

 

離れる兄弟の信仰の幼さもさることながら、そのような離れるきっかけになるような言動をしてしまった牧会者にも責任がございます。そのように、この牧会者もメンバーも、共に完成していない。共に堕落性をもっている。

 

だから、よく言われるように、売り言葉に買い言葉で、結局、なかなか一体化できない。そして、天の父母様や原理や真のご父母様は否定できない。これはもう信じられる。つまずくことはない。でもその真のご父母様の代身であるはずの牧会者がどうしても信じられない。理解できない。尊敬できない。ゆえに、残念ながら、その牧会者との関係が一つの原因となって、永遠の生命を失ってしまう。あるいは牧会者との心情的な葛藤が原因となって、分派のさまざまな誘いや誘惑に負けてしまう、ということが現実に起きてまいりました。

 

そこで私が、もう一度改めて申し上げたいのは、この信仰の道は信仰基台から始まりますけれども、決着は、実体基台でつけなければならない。

 

違った表現をいたしますと、信仰基台よりも実体基台のほうが、ある一面、もっと難しい。なぜならば、信仰基台は先程申し上げましたように、裏切ることのない神様の前に、人間側だけ、その中心人物だけ、信仰を全うすれば成立であります。

 

しかし、実体基台は、相手がいる。その相手も、神様のような絶対的な存在ではない。堕落性をもっている。その堕落性をもっている者同士がお互いに裁き合えば、カイン、アベルの一体化はあり得ません。しかし、お互いに許し合い、足りないところを補い合う。一つになるためには、許しが必要であり、この横的な愛の闘いに勝利しなければなりません。

 

つまり、信仰基台は信仰の闘いであるのに対し、実体基台は愛の闘いであります。しかも、まだ完成していない、堕落性のある、不完全なアベルを、不完全なカインを愛して、お互いに自然屈服せしめる、お互いに尊敬していただけるような私たちになっていかなきゃいけない。

 

アベルはアベルとして、アベルの正道の道を目指し、カインはカインとしてカインの正道の道を目指す。この横的な人間関係における愛の闘い。これに勝利しなければ、メシヤのための基台まではたどりつけないわけであります。そして本当の意味で、真のご父母様と一体化することができない。

 

教会を訪問しますと、牧会者とメンバーたちがどれぐらい一体化しているかということは、その空気で一目瞭然で分かります。「ああ、この教会は発展するなあ」。

 

教会長をメンバーたちが慕っている。またメンバーたちを教会長は本当に大事にしている。この牧会者とメンバーたちとの関係がより自然な、尊敬し、そして慕い合う。そのような関係であれば、カイン、アベルは自ずから一体化して、教会は発展するに間違いありません。

 

その意味において、改めて申し上げたいのは、このみ旨の道の最終目的は、神様と一体化することである。しかしその神様に至るためには、真のご父母様を通さない限り、神様は正確に分からない。そのみ意も心情も、また願いも分からない。その意味で、真のご父母様と一体化すべきであります。

 

しかし、その真のご父母様を、一体化するためには、また、より真のご父母様に近い、実体のアベルを通して、私たちは真のご父母様を正確に知らなければなりません。

 

そして、今、改めて申し上げますように、信仰基台と実体基台、この2つの側面を、共に勝利しなければなりません。縦的な信仰の闘いにおける勝利と、横的な人間関係における勝利であります。天寶入籍勝利家庭になるためにも、この2つの条件が必要であります。

 

先祖解怨としてのいわゆる献金、先祖解怨、先祖祝福のための献金の条件。

 

そしてもう一つは、横的な、今度は430家庭の基台。これは正に、霊の子をつくる愛の闘いであります。先祖解怨、先祖祝福のための万物条件を捧げる信仰の闘いの勝利と、そして具体的に430家庭の基台。とりわけても43家庭の基台という、この愛の勝利なくして、天寶入籍勝利家庭になることができません。

 

結論的に申しまして、このみ旨の道は、信仰の勝利と愛の勝利、この2つを勝利しなければなりません。天の父母様に対する信仰、真の父母様に対する信仰、と同時に、天の父母様と真のご父母様を中心として、カインとアベルが一つになる。この愛の勝利。

 

組織においての、いわゆるアベルとの一体化、組織におけるカインとの一体化と同時に、私たちの永遠のカイン圏とも言うべき氏族圏。いわゆる伝道する対象としての、知人、友人、氏族圏、これはカイン圏であります。このカイン圏と私たちがいかに一つになるか。

 

そして天寶入籍勝利のための霊の子の基台としての43の家庭基台と、430家庭の家庭基台。これを勝利して初めて、天寶入籍が許されることになります。

 

最終的には、このみ旨の道は、天の父母様と真のご父母様に対する中心性の勝利。そしてカインとアベルが一つになる、一体化の勝利。この中心性と一体化の勝利こそ、復帰摂理における勝利の核心であり、鍵であると、このように結論づけてみたいと思います。

 

どうぞ、きょうお話をさせていただいた内容を参考にしていただいて、日々の信仰生活におけるさまざまなサタンの試練を乗り越えて、信仰基台、実体基台、共に勝利をしていただき、天寶入籍勝利家庭になっていただきたい。

 

そして、決して分派に惑わされることなく、天の父母様を正確に知るためにも、真のご父母様と一つとなり、その真のご父母様を正確に知るためにも、目の前の実体のアベルと一体化して、どうぞ、中心性と一体化の勝利をなしていただきたいと、お願いしたいと思います。

 

以上でございます。ありがとうございました。