「天国には、いろいろな民族がいる。日本人も入っているし、韓国人も入っているし、黒人も入っている。あらゆる民族がみんな入っている。そうなるんだよ。そこにおいて一番敵となるのは何か。民族主義である。どこに行っても『私はこうだ』とね。今まで自分たちの国家を尊び、基調としたそのものが、一番敵になる。それをいかに早く脱ぎ去るかというのが問題である」(1967年7月6日、東京・渋谷、旧松濤本部)
今日まで私たちは、国を愛することの貴さを、真の父母様を通して学んできました。「国を愛さない者は、世界を愛することができない」と教えていただきました。「家庭盟誓」二番では、「家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の家庭の道理を完成することをお誓い致します」と日々、唱和しています。国家レベルの「ために生きる」人生を生き切った方を「忠臣」として称え、歴史の偉人として記憶に残しています。
また、「忠臣」として歩まれた先人の名言や生きざまを、後世に残すべく力を注いだりもします。
「自分の肉を切るほどに千辛万苦の生を生きながら、国を愛し、後代のために闘おうというのが愛国者の行く道です」(天一国経典『天聖経』355ページ)とあるように、国を愛した「英雄」、「忠臣」という称号は、それだけの称賛に値する生涯を送ったがゆえの勲章です。
「国家」を超えられない「忠臣」
しかし、平和を追い求める天の摂理において、その国のために人生を捧げた「忠臣」が、その国の誉れ、その国の偉人としてのみ記憶されるとき、むしろそれが平和世界を目指す天の摂理の妨げになることがあることも、私たちは自覚しておかなければなりません。
真のお父様は、以下のように語られます。
「聖人と忠臣は何が違うのでしょうか。忠臣は国家を超えることができませんが、聖人は国家を超えています。自分の国だけを愛するのではなく、人類と世界を中心として、すべての受難の中で自分の生命を飛び越えて人類を愛した人が聖人です」(同356ページ)
摂理の峠において、民族主義が一番の敵になるとのみ言から考えると、「民族主義者」は、すなわち「自分の国のみを愛する忠臣」と言い換えることもできます。国を愛することは原理的であり、貴いことですが、その愛が自分の国のみにとどまるとき、むしろ支障を来すことがあるということです。
霊界にいる多くの忠臣や英霊は、国の英雄であり、祖国のために人生を捧げた自負心とプライドを持って、地上の祖国の忠臣を協助していることでしょう。救国救世の信念で立ち上がる地上人に、多くの忠臣の霊が背後から協助していると見ることは、再臨復活の視点から見ても原理的であると言えます。
しかし、この協助する先人の霊が「自分の国だけを愛する」というレベルの場合には、むしろ、国を超えて世界平和を推進する天の摂理には弊害となることがあるのです。
「愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければならないのです。聖人は、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は世界を犠牲にして、天の国と地、地上天国を築かなければならないのです」(『平和経』549ページ)
最後の目的は神様の息子・娘になること
『原理講論』に、「善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある」(120ページ)と記されているように、神の摂理から見れば、忠臣の霊による協助が、結果的に悪神の業となってしまうこともあるということです。
神霊的観点から述べるなら、日本は父母国家となるために、正にこの世界を超えなければならないのです。「自分の国だけを愛した忠臣」の霊を、聖人、聖子のレベルまで引き上げて、善神の業をなすように導くには、地上で摂理を担う私たちが国を超え、聖人、聖子レベルの心情を復帰し、最終的に父母の心情に立つ孝子・孝女とならなければなりません。そのとき、中心霊として私たちを協助してきた「忠臣」の霊も、共に成長していくのが、「原理」です。
真のお父様は〝平和を愛する世界人〟としてその生涯を歩まれ、真のお母様は〝人類の涙をぬぐう平和の母〟として、今なお、その歩みを止められることもありません。
国のために生涯を捧げた貴い愛国者が、世界人として飛躍することができるように、地上で歩む私たちが真のお母様と完全に一つになって、世界人として誇りある人生を歩んでまいりましょう。
「孝子になれなければ忠臣になることはできず、聖人や聖子にもなることができません」(『天の父母様聖会』176ページ)