「一年三百六十五日を勝利の日としながら、感謝する生活をする人がいるならば、その人は父と関係を結んで生きる生活が、かいある生活だということを感じることができるのです。こういう生活をする人は、そうした経験をすることが間違いないので、一生を感謝する生活として送ることができます。こういう人が死の場に臨んだとしても、神様の前に感謝する心は残るのです。一日をそのように生きなければならないし、一年をそのように生きなければならないし、私たちの一生の間もそのように生きなければなりません」(『牧会者の道』209ページ)
「感謝する生活」の大切さは、ちまたの自己啓発本、あるいは心理カウンセラーなどから発せられる人生相談の王道とも言えるポイントです。そのアドバイスに触れて、心癒やされた経験を持つ方も多いかもしれません。
真のお父様は、信仰者としての「神様への感謝」の大切さを第一に説かれます。一日二十四時間を、父母なる神様と共に生き、共に感じ、共に感謝する生活を送るなら、その心は永遠に価値あるものとして残るというのです。
もちろん、信仰生活は喜びや希望的な出来事ばかりではありません。多くの超えがたい試練に遭遇するときもあります。神様から与えられる摂理的・蕩減的試練や、神様が私自身の成長を願われて、あえて克服すべき壁を準備されることもあります。
そんなときにこそ問われるのが、「感謝する生活」の成果なのかもしれません。どんな試練も感謝して受け止める限り、前進への勇気と希望が湧いてきます。感謝する心には、サタンも侵入することはできません。感謝する心は、信仰者としての自分自身を守る大きな武器ともなるのです。
真のお母様も、「感謝」について強調されます。
「私の生涯の座右の銘は、いかにしてきのうよりきょう、さらに感謝の気持ちをもって生きていくかということです。きのうよりきょう、さらに感謝し、あすはきょうよりもっと感謝しながら生きるために努力してきました。日ごと、感謝の気持ちをもつことが、私の人生の目標でした。お父様はダンベリーに出発される直前に、『不平を言ってはいけない。立てられた立場で感謝し、感謝することによって完全に一つとなったとき、大きな奇跡が起きる』と語られました」(『真の父母経』1570ページ)
真のお母様がこのみ言を語られたのは、真のお父様がダンベリー連邦刑務所に収監されてから十日後(1984年7月31日)です。心の痛みを抱える絶頂期に「感謝」の大切さを語られる真のお母様に、心から敬意を表します。「父母なる神様への感謝」を生涯の座右の銘として大切にしながら多くの試練を超えてこられたからこそ、涙に暮れる子女様や兄弟姉妹を感謝の気持ちで乗り越えさせることができたのだと思います。涙のベルベディアに、お母様を中心に希望と一体化がもたらされた瞬間でもありました。
史吉子先生(36家庭、2019年聖和)の日記には、真のお父様がダンベリーに向かうときに語られたみ言も多く記されています。
「『今後成されることは何ですか』と神様に伺ってみると、神様から『これから世界人類があなたのところに戻ってくるだろう』という答えが返ってきた。……この峠を越えて次に会うときには、一つになった新しい世界が私を迎えるだろう。それで私は十字架の道を希望や望みをもって行こうと思う」(『ダンベリーを中心としたアメリカの摂理』184ページ)
真のお父様は牢獄に向かうたびに、地獄の解放を聖なる使命のように考えられ、生きて超えてこられました。峠の向こうに待つ新しい世界を希望として、自らの十字架の道を感謝と希望に変えながら超えてこられたのです。サタンは、試練の峠を「感謝」の心で越えるお父様の前から退くしかありませんでした。
真のお父様も、真のお母様も、いつも摂理の前には先鋒勇士として立たれ、私たちはその後ろ姿を見詰めながら後を追い続けているのが現実です。
立場や環境、置かれた状況に不平不満を抱きやすい私たちですが、どんな状況下においても、まず求められるのは「感謝」の心なのだと、真の父母様の生涯を通して教えられます。
二〇二二年、摂理的に大きな峠を越えようとしています。先頭に立たれる真のお母様は、何があっても不変の心情で「感謝」を座右の銘として前進していかれることでしょう。子女として共に「感謝」の気持ちを失わず、前進してまいりましょう。