摂理に向かう私たちに必要な聖霊による悔い改め

 八月四日、東京・渋谷の松濤本部で、「第三十四回七・一節および第二十八回七・八節 敬礼記念式」が行われました。このメッセージは、その式典での田中富広会長の記念説教を整理したものです。(文責・編集部)

摂理が大きく転換した1991年から
2001年までの約10年間

 きょう、この時間は、「七・一節」が制定された一九九一年から二〇〇一年までの約十年間を振り返ってみようと思います。天の摂理において、この約十年間は大きな転換期であり、重要な時でした。私たちが、その内容にどこまで相対していたかということをしっかりと振り返らなければなりません。
 第一に、この約十年間に、神氏族メシヤの本格的出発がなされました。先ほど読んでいただいた「七・一節」の説明にもありましたが、この神氏族メシヤを子女の責任時代として受け止めて出発したのが、一九九一年でした。
 第二に、この約十年間は、真のお母様を中心とした女性解放時代の始まりでした。それに伴って、お母様が摂理の前面に出てこられるようになりました。
 第三に、家庭の価値を中心とした、摂理の大転換時代でした。
 この三つのポイントで、皆様と考えてみたいと思います。
 
 本来、真の父母様のご聖婚からの二十一年の路程が父母の責任時代で、一九八一年から子女の責任時代と言われており、譽進様の祝福も挙行されました。
 一九八一年の年頭標語は、「家庭教会は私の天国」でした。この「家庭教会」という言葉が、八一年を中心としてその前後、五年間連続して年頭標語に入っていました。つまり、この時は子女の責任において家庭教会、ホームチャーチを勝利することが摂理の中心であったのです。
 八〇年の年頭標語が、「家庭教会は天国基地」、その前年の七九年は「家庭教会を通じた天国完成」です。そして、八二年は「家庭教会勝利」、翌八三年は「家庭教会は我々の定着地」でした。
 その後、真の父母様の動向は一挙にダンベリー収監に向かって突き進んでいくことになります。八四年からは、年頭標語から「家庭教会」という言葉は消えました。
 この「家庭教会」摂理に対して、私たちは多くを悔い改め、そして多くを反省しました。
 本来は、アベル圏、つまり自分の家族・氏族圏を愛して伝道する前に、カイン圏を先に愛して、み言を伝えなければなりません。それを勝利しなければ、家族・氏族圏を伝道することはできないのが原則でした。ですから、カイン圏を伝道しに行くのが、この「家庭教会」、ホームチャーチ三百六十軒の摂理でした。
 この頃の真のお父様のみ言は、今、私たちが取り組んでいる神氏族メシヤの摂理に十分に通じており、ふさわしい内容だと思います。
 地域化戦略と併せて、「家庭教会」をどのような精神で進めるべきかなど、正に、今の私たちの神氏族メシヤ、地域化をベースとした取り組みに、大変参考になるメッセージがあります。
 この家庭教会摂理において、天の願われる基準を達成した家庭は一家庭もなく、そのことゆえに大きな十字架を真のご家庭が背負うことになりました。
 そして、興進様の聖和、真のお父様のダンベリー収監を経ながら、一九八八年のソウルオリンピックがあり、大きな天の勝利圏を真の父母様が打ち立てていかれました。その犠牲と勝利圏の恩恵のもとに、子女である私たちが、神氏族メシヤ、いわゆるアベル圏の家族、氏族を愛し伝道していく摂理に転換されていきました。「これからは、家族、親族以外は伝道してはならない」とまで言われるようになったのです。
 我々自身が勝利基準を立てて神氏族メシヤの時代を迎えるようになったのではありませんでした。真の父母様が我々に代わって蕩減の道を歩まれて、勝利圏を立ててくださった結果、私たちが氏族を愛することが許される時代圏に入ったのです。
 このようにして、一九九一年に、改めて本格的に子女の責任時代に入り、神氏族メシヤ勝利に向かって大号令がかけられたのです。

お母様を中心とした女性解放時代の
出発と神氏族メシヤの摂理

 もう一つ、この約十年間で重要なのは、真のお母様中心の女性解放時代に突入したということです。一九九一年七月一日に「七・一節(神様祝福永遠勝利宣布)」が挙行されました。
 その前月の六月十五日に、カナダで「顧命性宣誓宣布」がなされています。これは、真のお母様を中心に、日本を代表する四人の女性が呼ばれてなされました。日本がお母様と一つになっていく使命を改めて確認し、これからお母様が前面に立っていく時であることを真のお父様が宣布されたのです。
 そして九二年、世界平和女性連合が出帆します。真のお母様を中心として、女性解放時代の新しいスタートを切りました。
 真の父母様が聖婚されて三十三周年である九三年には、成約時代が宣布されました。正に、真の父母様のご聖婚があってこそ、成約時代の宣布があったということです。真のお父様はそのとき、三十三数は完成数を意味すると言われました。
 そして九四年を迎えます。このときが荒野四十年路程の終了であり、蕩減時代の終了です。
 統一教会の時代は終わり、家庭連合の時代となりました。それに伴って、「私の誓い」が「家庭盟誓」に切り替わりました。そして併せて、還故郷が宣布され、一斉に故郷復帰・氏族メシヤに向かっていくことになったのです。
 それまでは個人をベースとして蕩減摂理が進んできましたが、家庭をベースとして、氏族、そして地域を愛していく摂理を、真の父母様は大きく打ち出されました。
 振り返れば、このときは実に重要な、天の摂理の転換点でした。
 一九九五年、この頃から真のお父様は、本格的に南米に入られました。そして、真のお母様を前面に立てながら世界摂理を動かしていかれたのです。
 霊界もこのときから大きく動き始めました。九五年一月十九日に霊分立の役事が韓国・清平でスタートします。
 そのような流れの中で迎えたのが九七年の「七・八節」です。「七・八節」は、天暦七月七日に宣布されましたが、この日は陽暦では八月九日でした。
 この宣布前日の八月八日まで、真のお母様は「世界平和統一のための韓国・真の家庭実践指導者大会」を展開してこられました。そのお母様の勝利を土台として、「七・八節」の宣布がなされたのです。
 このように、九〇年代は、真のお母様の動向と、真の父母様がなされた勝利宣布が常に一致しながら動いていっているということが分かります。
 さらに、真の父母様が、家庭の価値をベースとした天の摂理を展開される中で、九七年には、「訓読会」がスタートしました。
 九九年二月十二日には、直系七代の先祖解怨がスタートしました。
 それまで、真のご家庭の先祖解怨・祝福はされていましたが、我々祝福家庭の先祖解怨が始まったのは、このときからです。これをもって、全ての霊界が完全に解放されていく流れができました。
 それから約四十日後、三月二十一日に、サタン完全屈伏の日が宣布されたのです。霊界における私たちの先祖を解放する摂理が始まったことによって、サタンは未来を失ったのです。
 そして六月十四日、第三十七回「真の万物の日」を迎えたときに、「天宙勝利祝賀宣布式」をもって、真のお母様が真のお父様から表彰を受けられました。お母様の勝利をお父様が称えられ、お母様はお父様から表彰牌を受け取られたのです。
 真のお父様は、「天宙勝利祝賀宣布式」について、このように語られました。
 「お母様は、お母様としての責任を果たしたので、初めて神様が公認した位置、サタンが公認した位置、人類が公認した位置に立つようになりました。
 そうして、キリスト教をはじめとする人類の宗教圏を越えて勝利の版図圏に立ったので、アダムの前に失敗したエバが復帰された価値として、同じ位置に入籍し、行動できる資格をもつようになったことを天地に宣布するのです。
 この『真の父母様天宙勝利祝賀宣布式』で、お父様がお母様に対して表彰するのです。ですから、お母様が今からは対等な位置に立つようになりました。男女平等圏時代が訪れたのです。愛を中心として、男女平等圏時代だというのです」(天一国経典『真の父母経』1441ページ)

 そして、九九年十二月十二日、私たちの直系七代の祝福が始まりました。
 ここから霊界は、一挙に神様の血統圏に立つようになっていきます。私たちが地上にいながら、霊界の全ての先祖を祝福にまで導いていくことのできる道が開かれたのです。
 これをもって、地上の私たち祝福家庭の精誠によって、霊界のサタンの勢力圏を神側に転換できるようになっていきました。私たち子女の責任時代ですから、子女が責任を持って、霊界まで完全に神側に転換させていかなければならないのです。

 そして迎えたのが二〇〇一年一月十三日の「神様王権即位式」です。霊界は大きく解放、祝福へと動き始めました。
 ところが、問題は地上です。「神様王権即位式」を迎えましたが、氏族メシヤを勝利した家庭が一家庭もありませんでした。
 それで、真の父母様は、十二年、摂理を延長されたのです。四年、四年、四年で二〇一三年天暦一月十三日までです。このときまでに必ず神氏族メシヤを勝利しなさいと言われて、スタートしました。
 真のお母様は後に、もし、あなたたちが氏族メシヤを勝利していたら真のお父様の(これほど早い)聖和はなかったと、韓国の四千人の日本婦人を前に語られています。
 それほど、神氏族メシヤという我々の責任分担が大切であるということです。我々の氏族メシヤの基盤の上に、神様を父母として迎え入れなければなりません。

 真のお父様のみ言にこうあります。
 「今からは家庭伝道時代です。先生の家庭を中心として、公式的な中心が現れ、これを皆さんに連結する時なので、家庭を中心とした伝道時代に入るというのです。家庭単位の中心は女性であり、母親です。母親が二人の子女を抱いていかなければなりません。母親を中心として息子、娘を一つにすれば、すべて終わります。息子、娘の問題はありません」(天一国経典『天聖経』952〜953ページ)
 このようなみ言とともに、母が前面に出てきたということは、正に家庭中心の摂理圏に入ったということです。この摂理の転換と、私たちがどこまで一致しているでしょうか。
 神様の摂理を家庭に着地させる時代です。私の家庭に神の摂理が着地するかどうかが、今、摂理の最前線なのです。
 神様の創造理想が着地するのは家庭です。そこに天の父母様(神様)と真の父母様をお迎えして、氏族メシヤを勝利する。我々がやるべきことは実にシンプルです。

深い悔い改めをベースとして
天の願いを受け止めなければならない

 ここから、きょうの本論に入ります。
 大事なのは、今お話しした摂理観に向き合っていく、私たちの姿勢です。そのキーワードは、「悔い改め」です。
 「悔い改める」ということは、簡単ではありません。我々は、悔いることはします。たくさん悔います。いや、悔いてきました。しかし、たくさん悔いたとしても、改めない限り、新しい出発はできません。
 悔いることはするけれども、改められないので、勝利できないのです。何回も天の許しに甘えながら、私たちは悔い改めにまで至れていないということを、深く感じます。最近は、どのようにすれば本当の悔い改めに至れるのかということを、よく考えます。
 私が祝福を受けたときは、ソウルのリトルエンジェルス芸術会館(当時)でマッチングが行われました。真のお父様が、男性と女性で分かれて座った候補者たちの真ん中を歩きながらマッチングをしてくださいました。
 真のお父様がマッチングをしていかれるのですが、大体は女性を先に立ててから男性を選んでおられました。
 女性を立ててから、その人に合う男性を探されるのです。そのときに、〝自分も真のお父様から見てもらえるだろうか〟と思い、緊張するのです。そして、いつまでたっても選ばれないと、だんだん、自分の過去の罪がよみがえってくるのです。〝ああ、あんなこともあった。こんなこともあった〟と。お父様が動かれるたびに、いろいろな葛藤が生じてきます。
 私たちは祝福を受ける前に、天の父母様と真の父母様から、全てのことを赦されている立場ですが、そのように緊張した立場に立つと、さまざまな罪に対する思いがよみがえってきます。それは、まだ、自分自身が本当の悔い改めにまで至っていなかったということです。
 今、私たちには、真のお母様とお会いする機会があります。私も、こういう立場に立ってお母様にお会いする場が何度もあります。
 しかし、お会いするたびに、完全に純粋、純真、純白の心情で、真のお母様の前にいられるでしょうか。それは、簡単ではありません。〝恐らく、ここが完璧にクリアできないと、純粋に、お母様の今の心情圏と一致した自分にはなれない〟と感じながら毎回、向き合っています。
 真のお母様から「알겠니(分かった?)、田中!」と言われれば、「イェー(はい)」とお答えします。そのようなときは、強く語られるお母様のご心情の、より奥深くまで入り込んで呼応しなければなりません。深い悔い改めをベースとしなければ、天の願いを受け止め切れないのです。

 詩篇の第五一篇と第三二篇は、ダビデの有名な悔い改めのシーンです。
 「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、私のもろもろのとがをぬぐい去ってください」(詩篇五一・1)
 彼は、自分の部下の妻バテシバと関係を持って、不倫を犯してしまいました。それがばれるのを恐れて、その部下を戦いの最前線に送り、バテシバを自分のものにしたのです。
 実際、部下は死んでしまいました。そのことをずっとダビデは負債に感じて、苦しんで、苦しんで、苦しんで、もがいて、天に祈ったのです。
 第三二篇には、こうあります。
 「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(同三二・5)
 我々は、かつて興進様の指導で「コンフェッション(告白)」をしました。そのとき、コンフェッションは一回ではなく、何回もやるのがいいと言われました。全ての罪を告白して、そして、純白、純潔になって赦しを受けない限り、悔い改めはできないのだと、そのときもよく言われました。
 このときのことを考えてみても、悔い改めるということがどれほど難しいかを感じます。
 洗礼ヨハネも、イエス様も、ペテロも、最初に訴えたのは「悔い改めよ」だったのです。
 「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」(マルコ一・4)
 「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」(マタイ四・17)
 「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝二・38)

天心苑特別徹夜精誠で証しする
二世たちの心情世界

 最近、「ああ、悔い改めるとは、こういう世界なのだな」と感じることがありました。
 それは、天心苑特別徹夜精誠で証しする二世たちの心情世界です。この二世たちの証しのほとんどが、真のお母様の心情に触れて、変わっていった内容です。すなわち、本当の意味での悔い改めは、聖霊によってなされるということです。聖霊による感動なのです。
 真のお母様の心情に触れることで、過去の全てが違って見え始め、自分が教会を恨んでいた思いが別の角度から映し出されてくる。親を恨んでいた思いが、別の角度から解け始める、など。全ての証しが、お母様の心情圏に触れている、正に、実体聖霊の役事です。
 真のお母様の心情に飛び込んだ二世圏の証しは、すさまじいです。
 ある女性は、「イエス様の十字架を天のお父様の視点からずっと考えてきた。わが子を十字架に追いやった天のお父様はどんな心情だったか、いつも見てきた」といいます。
 それが、霊性修錬会に出て、天の母、天のお母様の視点から見ることで、神様の心情が全く違って伝わってきたというのです。母性の世界から見たイエス様の十字架を感じたということでした。わが子を十字架に追いやっていく、母の心情から見た神様の世界に触れて、摂理観が彼女の中で大きく変化しました。
 そして、実のお母さんに対する思いが完全に変わったのです。お母さんが摂理に臨んでいた思い。なかなか教会につながらない自分のお兄ちゃんへの思い。お兄ちゃんを妹の視点で見ていたのですが、お母さんの視点からお兄ちゃんを見ると、全く別の角度から見え始めたというのです。そのようなことを、ずっと涙ながらに証していました。
 真のお母様が「天の母」という側面も強く訴えられるようになってから、二世圏が全く新しく実体聖霊に向き合っていくうねりを、今、霊性四十修を通しながら体感しています。
 二世たちが純粋に真のお母様の前にぶつける心情圏を、お母様もワンオンマとして全て受け止められます。そして、彼らは、純粋な心情で、決意を持って天の前に立ち上がっていっているのです。
 天心苑特別徹夜精誠での二世たちの証しを聞いて、皆さんはどう思いますか? 二世たちは、露骨に話しますね。
 「その話は、ちょっとやめていただけませんか」とか、「家庭連合ってそんなところなの?」と言いたくなるほどに、家庭事情を露骨に語ります。
 しかも、それを自分の家族がネットを通して聞いているのです。それでも、悔い改めの世界に至った中から、純粋に語るのです。
 私は、〝悔い改めというのは、ここまで行くのだな〟と思いました。
 私たちは、かつてのコンフェッションで自分の罪を告白して、赦しを受けて出発しました。しかし、それは自分の中で、本当の赦しとして受け止め切れていません。
 我々が悔い改めようが、悔い改めまいが、親は赦すほかありません。勝利しようがしまいが、悔い改めようが悔い改めまいが、赦します。
 しかし、この赦しを本当に赦されたと受け止める道は、悔い改める以外にはないのです。本当に悔い改めたときに、赦しと向き合うことができます。この世界を今、二世たちが私たちに見せてくれています。
 今、二世と真のお母様がつくっている心情圏が、摂理の最前線となって動いています。むしろ一世圏がどんどん取り残されてしまいます。
 なぜでしょうか? 真のお母様と心情的距離があるからです。だから、お母様が語られるみ言につまずくのです。お母様のみ言に対し、恐らく私たち一世のキャッチのしかたと二世のキャッチのしかたは随分違います。それを改めて感じます。
 一世がつまずいているみ言を二世にぶつけても、「その、何が問題なんですか?」の一言で一蹴されます。

天の父母様を私たちの家庭に
着地させていくという姿勢が必要

 改めて過去を振り返ってみなければなりません。私たちは、神氏族メシヤについて、どう考えてきたのか。真のお父様のそばにおられる真のお母様をどう見詰めてきたのか。そして、家庭をベースとして摂理を転換しようとした天の強い決意と摂理観にどこまで相対してきたのか。
 私たちは、悔い改めなければならないことがたくさんあります。それを心から告白し、天の前に生まれ変わっていかなければなりません。
 先日、真のお母様との時間を持つ中で、私は改めて一つのことを感じました。
 実体の真のお父様が前面に出てきていらっしゃるときに復帰された一世の古い私たちは、お父様を通して神様を知りました。ですから、祈りのときも、「天のお父様」と言えば、すっと祈ることができました。そのときは、お父様を仲保として天のお父様につながったのです。
 しかし今は、真のお母様を仲保としながら、天のお母様に通じる時代です。それでやっと、天の父母様なのです。天のお父様だけではないのです。天の父母様になってこそ、我々に本当の「孝情」が芽生えてくるのです。
 このことを自分の中で、祈祷の中で、しっかりとつかみ取って、(神様は)父母なのだということを心から宣言できるようになっていかなくてはなりません。
 天のお父様は、真のお父様が連結してくださり、天のお母様は、真のお母様が連結してくださいました。正に今、神様が地上に天の父母として着地できる、希望の時代を迎えたのです。
 神様を着地させる所は、天一聖殿の建物ではなく、我々の家庭です。我々の家庭に父母として着地させていくという姿勢を身につけなければ、過去の名節を、ただの記念式典で終わらせてしまいます。それでは、何の価値もありません。
 この名節に込められた天の意義を、私たちの家庭に着地させるという気持ちを持たなければなりません。そのように名節に向き合っていきましょう。
 ありがとうございました。