真の父母様の生涯とみ言の「解釈」に向き合う我々の姿勢

 七月六、七日の二日間、東京・渋谷の松濤本部と全国の教会をオンラインでつないで、「神日本『真の父母論』特別二日研修」が開催されました。このメッセージは、同研修の開講式(6日)と閉講式(7日)で田中富広会長が語った内容を整理したものです。(文責・編集部)

視点の違いで解釈は変わってくる
 全国の牧会者、ならびに祝福家庭、食口の皆様、おはようございます。
 きょうは、ここ松濤本部の天心苑特別祈祷室から皆様に中継でお送りします。
 きょうと明日の二日間にわたり、真の父母論に向き合うこととします。この内容に関しては、すでに牧会者の皆様は韓国での研修で、三回にわたって向き合ってきました。その内容を踏まえて、きょうは全国の兄弟姉妹の皆様と時間を共有したいと思います。
 学ぶ中で、「あれ?」という疑問が生じたり、あるいは「そうだったのか!」と思ったりする場面も出てくるかもしれませんが、まずは二日間にわたって総合的に向き合って、理解していくようにしてください。そのうえで、個別の案件をしっかり探求していくのがよいと思います。
 私の開講の辞のタイトルは、「真の父母様の生涯とみ言の『解釈』に向き合う我々の姿勢」です。
 私たちは常にみ言に向き合い、また、み言を力としながら生活しています。このみ言を、私たちは生活圏の中で解釈し、またその解釈を生活化するというのが日常です。
 み言は言葉なので、どうしてもそこに解釈という作業が入ってくるのです。この解釈は、解釈する者がどんな経験を踏まえているかによって、大きく異なってきます。
 どんな手段をもってそのみ言に向き合っているかによっても、捉え方が変わります。どんな視点からそれを見詰めているかによっても変わります。どのくらいの領域、どのくらいの幅広さから見詰めているかということも、み言の解釈に影響を与えます。あるいは、その本人が通過してきた背景、家庭事情、あるいはみ旨の責任分担など、いろいろなところから解釈も変わってくることがあります。
 さらに、本人の心霊状態です。怒りながら読んだり、あるいは愛にあふれて読んだり、いろいろな状態でみ言と触れると、どうしてもその時々の解釈が生まれてくるということになります。
 視座の違いについて、具体的な例を挙げてみましょう。「6」という数字が地面に書いてあったとします。それを見て、自分が「6」と認識していても、自分の向かい、すなわちその数字を挟んだ反対側に立っている人は、「9」と認識するでしょう。このようなことは、視座の違いから生じるものなのです。
 この絵は以前、私が皆さんに礼拝で紹介しました。『プチ哲学』(佐藤雅彦著、中公文庫)という書籍に出てくるものです。
 「えいっ」と押しているカエル、イジメガエルがいます。押されてドシーンと落ちそうなのが、イジメラレガエルです。この絵は、カエルですよ、皆さん。(笑い)そして、お魚さんが、そのカエルたちを、「あっ、危ない」と見ています。誰が見てもそのように見える絵です。
 ところが、この絵をグッと引いて全体像から見ると、実はこうなっています。
 「えいっ」と押したのは、いじめているのではなく、上から木の実が落ちてきているので、助けているのです。そしてまた、下のお魚さんは、上から落ちてきている実を見て、「危ない」と言っているのです。
 このように、私たちが物事を局部的に見るのと全体から見るのとで、解釈が完全に変わってしまうのです。こんなことは多々あります。
 これは、真の父母様のみ言に関しても、また真の父母様の生涯路程に関しても同じことです。ですから、私たちがみ言を解釈するということにおいては、しっかりと全体的な観点も踏まえながら向き合っていかなければならないということになります。

選択と決断の連続だった真の父母様の路程
 真のお父様は、「み言が先でしょうか、実体が先でしょうか。……み言が先ではありません。実体があって、その実体が行った事実をみ言で証しする」(2010年7月8日)とおっしゃいました。実体とは、真の父母様です。お父様は晩年、「実体み言宣布」を、長い時間をかけて何回もされました。
 私たちは、「み言の目的は実体であり、実体の目的は心情である」と学んできました。私たちは、み言を実践して、天が願うみ言の完成実体を目指し、究極はその心情圏に入っていかなければならないのです。
 み言はどこから来たかというと、勝利された真の父母の実体からです。ですから、このみ言の所有権は真の父母にあります。したがって、このみ言を解釈するのも、正に真の父母の権限においてなされていかなくてはならないということになります。
 ですから、まず私たちがみ言に向き合うときに、このことをしっかりと理解して、み言に対して実体を先立てながら解釈に向かわなければなりません。み言の主人が真の父母であるということを、私たちはしっかりとまず理解しておきましょう。
 そのうえで、このみ言に私たちが向き合うときに、「原理」を踏まえ、さらには、摂理に常に同参していくのですが、私たちの信仰生活は進んでいるので、摂理観というものもあります。「み言」と「原理」と「摂理」、この三つがいかに我々の中で整理されているかということも、また非常に重要な視点です。
 自分なりの摂理観を持ってしまい、「原理」からぶれていたり、あるいはみ言からぶれていたりする。これでは困ります。あるいは、摂理は常に動いていますから、この動いていく摂理に対して、原理的に整理できず、「あれ?」という疑問点から、不信感を持ってしまうこともあります。
 このようなことを考えると、「原理」と「み言」と「摂理」を、整合的に理解していこうとする姿勢が必要です。この「原理」と「み言」と「摂理」の整合性を保ちながら生涯を歩まれているのが真の父母様です。
 真の父母様が、生涯の歩みの中でいろいろな誤解を招いたり、あるいはいろいろな論点でその路程を解釈されたりすることを私たちはよく耳にします。
 どうしてそれが生じてくるのでしょうか。
 真の父母様はみ旨を進めるとき、時々にさまざまな選択をしながら歩んでこられました。選択をし、決断し、我々を叱咤激励し、牽引してくださるということを、私たちは何度も経験してきました。
 真の父母様と共に歩む弟子たち、私たちの不足さゆえに、真の父母様が計画したこととは違った道を選択しなければならないことも何度もありました。特に母の国・日本の不足さゆえに、真の父母様に多くの重荷を負わせてきたということも、私たちは経験してきました。
 したがって、真の父母様の生涯路程は、選択の連続であり、決断の連続です。時に壁にぶつかれば、また新しい選択をし、新しい決断をしなければなりません。そのようにして、真の父母様の生涯路程はつづられてきたのです。
 私たちは、「原理」を通して、み旨成就は神様の責任分担と人間の責任分担によって成されると学んできました。み旨に対する予定は絶対的ですが、み旨成就に対する予定は相対的です。それは人間の責任分担が加わるからです。
 ですから、み旨に対する予定は絶対的でも、その時々における摂理的プロセスに関しては非決定的であるとも言えます。これはもちろん、私たちにとってもそうなのですが、真の父母様の路程においてもそうです。常に選択の連続なので、どの道をもって成果にたどり着けるかということは非決定的です。
 そのような意味で、復帰の道は一つだけ存在すると言い切ることはできません。いくつかの道が存在すると言えます。それは、選択の連続だからです。このような視点で、私たちも真の父母様の生涯路程に向き合っていかなければならないと思います。
 そのときの歴史的な状況、あるいは整えられた条件等によっていくつか道があり、中心者はそれを選択するということになります。
 真の父母様もそうです。摂理の牽引のために、真の父母様はいくつかの可能性の中から、原理的であり、最善の道を選択してきたと私たちは信じています。真の父母様の選択は、何度か繰り返されながらも、原理的であり、摂理的であり、み言に矛盾しない中で、常に新しい選択が生まれてきているということになります。
 したがって、私たちが真の父母様の生涯路程に向き合うとき、あるいはみ言に向き合うときに大切なことは、真の父母様が復帰摂理路程において時々に選択し、決断された、その理由です。なぜその道を選択されたのか。なぜそれを決断されたのか。それを私たちが理解できていないのです。また、不足なところがあるがゆえに誤解したり、誤って解釈したりしてきたのです。

天一聖殿の聖画に込められた真のお母様のご心情
 そのように考えて、真の父母様の背景に目をやるとき、私はこの数年間で本当に多く反省させられると同時に、新たな視点も与えられました。
 真のお母様は、真のお父様の聖和以降、天苑宮・天一聖殿建設に着手し、そして力強い歩みをもって私たちを叱咤激励し、牽引してくださっています。
 私の耳には、「こんな箱物ばかりをつくって、それでみ旨が進んだと言えるのか」という人の声も届いてきます。
 そのような目線がある中でも、天苑宮・天一聖殿にこだわる真のお母様の心情の一端を、私はこのように理解しております。
 天一聖殿の中に十四枚の聖画が展示されています。画家の先生方と七年かけて制作した、三百年たっても、五百年たっても、変わらないものとして残そうとした十四点の聖画です。
 これを見ると、「あぁ、真の父母様はこんなにすごい路程を歩まれた」と捉えられる、迫力ある聖画です。
 真のお母様は、〝この十四点の聖画に描かれた真の父母の生涯路程を通して、神様が父母であることが分かるのだ〟と強調されました。
 このみ言は、私にとって、自らの視点を全く別の角度に変えさせられたものでした。真の父母という存在を強調するのが、目的ではなかったのです。神様が六千年間、人類を尋ね求めてきた父母なのだということを、真の父母の生涯路程を通して見ることができるというのです。このことに、真のお母様は力点を置かれていました。
 この聖画を、また別な視点から見ると、真のお母様が真のお父様を心から愛しておられ、お父様の生涯路程に心から敬意を表しておられる、その心情の世界に触れることができます。
 私たちは、真の父母様の生涯路程における、真の父母様の選択の原点に、その背景に、真の愛と心情の世界を見いだしていかなければなりません。そうしなければ、本質を理解できないと思います。
 真の父母様の歩み、あるいはみ言が、いかに父母の愛、父母の心情から出てきたものかを理解することがとても重要なのです。
 例えば、あるとき、私が真のお母様から叱られたとしましょう。もし、お母様が机を強くたたきながら、「分かったか、田中!」と語られているとしたら、その光景を見た第三者の人には、〝田中会長はお母様から、きつく叱られた〟と映るでしょう。
 でも、叱られている私が、そこに真のお母様の愛と心情を見て、そのみ言を受け止めた場合は、全然、叱られたとは思わないのです。むしろ厳しい言葉で愛された、感謝でしかないという気持ちになります。
 したがって、その語られた言葉の奥にある愛の世界、心情の世界を考えて見詰めた場合と、表面的な事象だけを見詰めた場合では、受け止め方が全く変わります。
 真の父母様は、神様の父母なる心情を知り、その視点から生涯を歩まれました。
 神様は聖書の歴史でいう六千年間、なぜここまで裏切られ、民の不足さゆえに摂理が延長を重ね、独り子を十字架に送ってまでしても、諦められないのか? もう結論は一つです。親だからです。親は絶対に諦めません。
 父母の心情圏の中で、摂理は必ず勝利するまで前進するので、神様が親としておられる限り、必ず復帰摂理は成就します。これが、私たちが学んだ神様です。

真の父母様おふたりで成してこられた摂理の節目における勝利宣布
 その親なる神様と完全に一つになった真の父母様が、さまざまな選択と決断の連続を経て、成してこられたのが勝利宣布です。摂理の節目において、必ず布石を打ってこられました。
 真の父母様はいろいろな形で、いろいろな理由で、いろいろな選択、決断をしてこられましたが、それらは、この勝利宣布に至るプロセスだったということです。
 私たちの目線からは理解できないような真の父母様の行動があったかもしれません。でも勝利宣布をもって、全てが、そこに至るプロセスとして理解することができます。
 真の父母が公布した「宣布」は、「サタンは妨害できません。それは公認された事実として認定しなければなりません。……神様が保証する」(『文鮮明先生御言選集』、第383巻280ページ)ものであり、「宣布式を行うことで勝利として終わる」(同269巻319ページ)とあります。
 さらに、「宣布」は「霊界の法になり、地上の法となり」(同526巻25ページ)とあります。
 正に、私たちはこの勝利宣布をもってみ言に向き合い、真の父母様の生涯路程に向き合うことが大切だと思います。
 そして、この勝利宣布は基本的に全て、ご夫妻の共同勝利宣布です。共同勝利宣布ですから、真のお父様だけの勝利宣布ではありません。
 真のお母様にとっても勝利宣布であり、真のお父様にとっても勝利宣布です。常に、ご夫妻で勝利宣布の位置に立たれました。
 したがって、私たちは真の父母様の生涯路程を見るときに、またみ言に向き合うときに、常に真の父母が一体となって勝利宣布された立場から物事を解釈し、理解していかなくてはならないということになります。
 こう考えると、真の父母様がみ言の主人であり、所有権を持ち、解釈の権限も持っているわけです。ところが、真のお父様はすでに霊界に旅立たれました。
 今は真のお母様のみが地上におられます。そして今、お母様を中心としながら、天宙的カナン路程の摂理がなお継続中です。摂理が継続中ということは、なおみ言の解釈の扉は開いているということです。
 ですから、真のお母様がみ言の主人であり、み言の所有権を持ち、み言の解釈の権限を持っているということです。この観点から、私たちはお母様と向き合い、お母様が何を中心として生きておられるかを尋ね求める必要があります。
 この前、十四日間の牧会者の研修会中に、私にとって本当に悔い改めることと、感謝することが同時に生じた真のお母様のみ言があります。
 それは何かというと、「(真のお母様は)真の父母として歩んできた」ということです。韓鶴子総裁という個人の路程としてお母様を見るのではなくて、お母様の動機、思いは、「真の父母をいかに勝利するか、真の父母をいかに歴史に残すか」、この視点から、忍耐し、決断し、真のお父様と一つになって取り組んでこられたということです。
 この、「三百年たっても変わらない真の父母、未来永劫にわたって変わらない真の父母、そして神様が六千年かけて尋ね求めてきた真の父母をしっかり立てていくために、真のお母様の生涯があった」という視点から、お母様の生涯路程を解釈することが、我々子女には必要なのだということを、私はとても強く感じました。
 神様が歴史をかけて尋ね求めてきた真の父母が、すでに一九六〇年に真の父母を宣布され、その後、数々の勝利宣布をしながら、私たちを牽引しておられます。
 三百年たって、「真の父母はどなたですか?」と問われても、真の父母様は一組です。千年たっても、未来永劫にわたって、私たちが霊界に行って神様を求めたら、真の父母の姿を通して出会うことになるのだと言われるその真の父母とは、文鮮明総裁、韓鶴子総裁です。
 この真の父母を分けて考えることなど、父母ですから、絶対にありえません。この視点から私たちは真の父母様の生涯路程を解釈し、またみ言を解釈していかなければならないのです。
 結論の一つ目として、摂理とみ言の主人は唯一、真の父母様ご夫妻のみであるということを、まず私たちは認識して、み言と生涯路程に向き合いましょう。
 二つ目として、真の父母様ご夫妻は、真の父母として共同勝利されたため、ご夫妻の分離は不可能であるということを大前提として、私たちは真の父母様の生涯路程とみ言に向き合いましょう。
 三つ目として、真の父母の生涯とみ言を、真の愛の観点から解釈して、その本意を把握していきましょう。言語的、いわゆる言葉だけ、あるいは論理だけ、概念の中でのみ解釈すると、間違う可能性が高いのです。言葉尻だけを追いかけるのではなくて、正に人類を救う真の父母としての心情の中に、その動機を見なければなりません。それは、父母の愛であるということです。
 きょうこの瞬間、真のお母様は南米にいらっしゃいます。お母様が、人類の母として決断し、行動しておられることは、疑いのない事実です。
 私たちは常に、真の父母様のメッセージ、そして行動、決断一つ一つに対して、その背後に真の愛の視点を持って向き合うようにしていかなければならないと思います。
 この二日間、初めて聞く内容もあるかもしれません。あるいは、衝撃を受ける内容もあるかもしれません。まずは、全体像を理解して、そのうえで個別を深掘りしていけば、より理解は深まると思います。

人類の真の父母は、ただ一組 文鮮明総裁・韓鶴子総裁ご夫妻
 皆さん、二日間の学び、お疲れさまでした。
 この二日間の学びで、どう理解すればいいか分からないところもあったかもしれません。新しい発見もあったかもしれません。真の父母論に関しては、まだ入り口に立ったばかりです。
 私たちが『原理講論』を一生涯かけて学びながら、学ぶたびに新しい発見があるように、この真の父母論も、私たちの信仰生活と照らし合わせつつ、これからしっかり向き合っていけば、新しい発見がもっと多くあるだろうと思います。
 まずはこの学んだ六つの講座に向き合って、深掘りしたいところをお持ちの方は、何度も見て研究をしながら、総合的にしっかりと理解を深めていただきたいと思います。
 この二日間を閉じるに当たって、これはぶれないでおきましょうという、約束ごと四つを確認しておきたいと思います。理解できないメッセージ、あるいは理解できない真のお母様の世界、あるいは理解できていない真の父母様の世界もあるかもしれません。でも、この四つだけは忘れないでください。
 第一は、私たちにとって絶対にぶれてはいけないのは、三百年たっても五百年たっても人類の真の父母は文鮮明総裁、韓鶴子総裁であるということです。
 この確信が、私たちの信仰の一番の中心軸です。この大黒柱がぶれたら、全体がぶれ始めます。この信念の中でより学びを深め、より研究を掘り下げていくということに取り組んでいくべきだと思います。ここがぶれなければ、理解し切れなかったところがあっても、霊界に行ったらちゃんと真の父母に出会うことができます。
 真のお母様は、真の父母論、真の父母様の生涯を学び、最終的には私の元に連れてきなさいとおっしゃるのです。「私に会えば、全ての問題が解決する」と、いつもおっしゃいます。
 このみ言にはさまざまな思いが込められていると思いますが、宇宙の根本が親子の世界であるように、理解できない論点があったとしても、今、目の前におられる真のお母様と私たちは親子なのです。この心情圏がベースとなって見えてくる世界もたくさんあります。
 こういうことを考えると、〝私の前に連れてきなさい。会えば解決する〟というみ言の中に、私たちは深い親の愛を感じます。
 未来永劫にわたって、変わらない真の父母は、唯一なる一組であるということを、自信を持って宣布していく私たちでありたいと思います。
 第二は、今なお、摂理は継続中であるということです。まだ摂理は未完です。
 したがって、なお、私たちは新しい天の摂理に遭遇しながら、そのたびにまた、真の父母様からみ言を頂くことが継続していきます。
 こういう摂理の進展とともに発せられるみ言とも、私たちは今後も向き合っていくと思います。
 私たちは、神の国を一国も持たない立場で、真のお父様を霊界に送ってしまいました。地上に真のお母様がおられるうちに、一国でも天の前に建て、そして、その神の国の中で過ごした立場として、私たちは、今度は真のお母様をお送りしてさしあげなければならないと、改めて感じます。
 もちろん、真のお母様をお送りして終わりではありません。真のお父様は「双合十勝日」に、もしこの地上に一人でも祝福を受けていない者がいるのなら、言い換えれば、なお神の子の位置に立っていない者がある限り、祝福運動は永遠に続くと、VIPたちが参席する大会で宣布されました。
 全人類が神様の懐に帰るまで、親なる神は絶対に救いを諦められません。ですから、私たちも天の父母様(神様)と共に、真の父母様と共に歩んでいるという信念を持って前進してまいりましょう。
 第三は、真理に対して謙虚になりましょうということです。自分の中にある良心の声に謙虚になっていかなければなりません。
 神様は、私たちの良心に働きかけながら、救援摂理を進めてこられました。いかなる人間の中にも良心があります。
 この良心は、先生に優り、父母に優り、神に優る存在です。この良心の中に、良心の声に、私たちは真実を発見できると改めて感じています。
 『原理講論』に「教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである」(30ページ)とあります。
 私たちは、成約時代から天一国時代にもうすでに突入しています。新しい時代に新しい真理の光をしっかりと受け止めながら、古い時代に学んだものと新しい摂理の最前線で学ぶものを自分の中でしっかりと調和を図りながら、前進していくためにも、自らの良心の声に耳を傾けることを怠らず、日々の生活に取り組んでいきたいと思います。
 第四は、この学びが、私たちの生活に着地しなければならないということです。そうしなければ、学んだ意味がありません。必ず生活信仰に着地させ、私たちの日常の生活に常に新しい革命が起きていかなければなりません。
 天の父母様と真の父母様の世界をずっと私たちは学んでいるのですが、天の父母様と真の父母様が着地する所は、子女がいる家庭です。
 この家庭に、父母に正しく侍る子女たちがいてこそ、神様の居場所があり、真の父母様の居場所があります。その真の父母を末代にわたって、継続、安着させていくためにも、私たちの家庭で四大心情圏がしっかりと確立できることが願われています。
 何よりもその核心は、神様の二性性相の実体対象である夫と妻、夫婦です。夫婦が一つになって、そしてその夫婦を見ながら、子女がそこに神を見る。それ以外に真の父母を地上に安着させ、天の父母様を地上に安着させる道はありません。
 そのような意味で、「自分はこの家に生まれて良かった」と、素朴に子女たちの口から出る家庭づくりを目指して、頑張っていきましょう。 
 「いやー、僕はうちのお父さんのもとで生まれて良かった」と言うような、お母さん抜きの言葉はありません。「自分はうちのお母さんのもとで生まれて良かった」と言いながら、お父さんを無視している子もいないでしょう。 
 やはり自分の出生の原点は、夫婦が一つになったところにあります。自分のアイデンティティーに、ぶれることのない出生の喜びを持ち、天が与えてくれた命に感謝して生きる、そんな家庭環境を目指していく限り、私たちの家庭に、天の父母様も真の父母様も必ず安着できると確信しています。
 ぜひ、より学びを深めて、そして真の父母論をしっかり自分の生活圏に着地させることができるように努力してまいりましょう。
 きょうは以上で終わりたいと思います。ぜひとも、皆様のより希望的、そして発展的な日常の生活となることを願いながら、私の締めの言葉とさせていただきます。