怨讐を乗り越えるたった一つの方案

 四月六日、山口県下関市の会場で「日臨節 83周年記念大会」が開催され、山口エリアの牧会者をはじめ、教会員たちが集いました。メッセージに立った田中富広会長は、怨讐を愛し、ために生きる生涯を貫かれた真の父母様を証しし、「文鮮明総裁ご夫妻の平和思想に立ち、平和の在り方とその基本的な教えを、実体をもって発信していってください」と参加者を激励しました。(文責・編集部)

祖国にあふれる理不尽な様相に苦悩し、天に祈られた文鮮明総裁

 皆さん、こんにちは。
 その国の未来は、その国の青年を見れば分かると言われますが、第一部の青年によるパフォーマンスを見れば断言できます。山口の未来は明るいです!(拍手、歓声)希望しかありません!(拍手)ありがとうございます。
 日本は太平洋に浮かぶ島国で、どこから入っても「上陸」という言葉が使われます。一五四九年に宣教に訪れたザビエルの入国でも上陸と使いますし、江戸幕府と交流した朝鮮通信使、ペリーの来航、さまざまな使節団に対しても同様に上陸と使います。
 本日は、一人の人物の日本上陸を記念して、皆さんと共にこの場に集いました。その方は、文鮮明総裁です。
 ザビエルの入国は、日本にキリスト教宣教の扉を開き、また、ペリー来航は時の政権を揺さぶり、明治維新へと一直線に突き進んでいきました。きょうは改めて、文総裁が、私たち個人あるいは日本にどのような影響を与えたのか、真摯に向き合い、考えてみたいと思います。
 ここに一冊の書籍があります。文総裁の自叙伝『平和を愛する世界人として』です。文総裁は一九四一年四月一日に日本に上陸し、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科で学ばれましたが、この入国は、単なる留学ではなかったことを、私たちはよく知っています。
 文総裁は、若き頃から、祖国が日本に統治される中で目にする理不尽な様相に苦悩し、天に祈ることが多かったと伺っています。自分はなぜ生まれたのか。人生の目的は何か。神は実在するのか。死後の世界はあるのか。今受けている朝鮮半島、韓民族の苦悩はずっと続くのか。この苦しみは神が与えたのか。神が与えたのであれば、何のために与えたのか。そして、誰もが願う平和とは本当に訪れるのか。もし訪れるのならば、どのように構築できるのか……。苦難にあえぐ同胞を見詰めれば見詰めるほど、その祈りの思いは強くなっていったのではないかと思います。
 文総裁が十五歳のとき、涙を流しながら天にむしゃぶりついて祈っていると、自叙伝に〝風のように忽然と〟と記されているように、イエス様との劇的な出会いがありました。そのとき、人類の苦悩、人類の悲しみを見詰める親なる神様がいらっしゃることを知られたのです。イエス様は、神様の願いを果たすために使命を担ってほしいと告げ、ご自身が成しえなかったことを成し遂げてほしいと訴えられたのです。
 そのような出会いを背景に、文総裁の日本上陸への道は開かれていきました。

〝神様が願う平和世界には怨讐があってはいけない〟

 自叙伝の序文にこのように記されています。
 「私は、たった三文字にすぎないこの名前を言うだけでも世の中がざわざわと騒ぎだす、問題の人物です。お金も、名誉も貪ることなく、ただ平和のみを語って生きてきただけなのですが、世の中は、私の名前の前に数多くの異名を付け、拒否し、石を投げつけました。私が何を語るのか、何をする人間なのかを調べようともせずに、ただ反対することから始めたのです。
 日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩政権、そしてアメリカで、生涯に六回も主権と国境を超えて、無実の罪で牢屋暮らしの苦しみを経ながら、肉が削られ、血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐さえも跡形もなく溶けてなくなるのです」(光言社、5〜6ページ)
 〝神様が願う平和世界には怨讐があってはいけない〟。私も四十九年前に、この教えに触れて、実に重い言葉として心の中に沈み込んでいきました。
 聖書に、「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイ五・40)とあります。それは、頑張ればできますね。「ほら、持っていけ!」と言えば、済みますから。「右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさい」(同五・39)と。これも我慢できます。「たたくなら、たたけ!」と言えば済むわけです。しかし、もう一つあるのです。〝怨讐(敵)を愛せよ〟と。これは簡単ではありません。私たちを振り返っても、本当に嫌な人、恨みを持ってしまう人はいます。その否定的な思いを「愛する」という一言で片づけられるほど、私たちに心の力量はありません。しかし、神様の平和ということを考える以上、そこに怨讐という概念があってはいけないのです。
 当時の朝鮮半島の人々にとって、最大の怨讐は日本でした。この怨讐国家、日本をよく知らない限り、愛することも困難であると、このような思いを携えて文総裁は日本に上陸されました。その一歩を踏み出したのが、ここ下関です。

幸福とは、自らの家庭で見いだし、積み上げていくもの

 日本に対する、怨讐を超えるという文総裁の課題は、神様にとっても超えなければならない課題でした。平和の構築という大きな目標の前には、日本レベルにとどまらない、世界レベルで直面する大きな障害があったからです。
 一つ目は、宗教間の葛藤と腐敗です。人々の幸福を説き、平和を訴える宗教が、互いに争い、神の名を掲げて戦争に突入し、多くの命を奪っていました。
 二つ目は、神を亡き者とする共産主義の台頭です。神の存在を認めず、永生の価値や家庭の価値を否定する共産主義思想と真っ向から向き合っていかなければなりませんでした。
 三つ目は、青年たちです。きょう、第一部で見たように、青年たちは未来を象徴します。その青年が、フリーセックス、性倫理の退廃などにまみれ、「彼らに未来を託せる」と言える者たちを見いだすことができなかったのです。
 文総裁は日本滞在中、あらゆる課題と向き合い、さまざまな試練を乗り越えていかれました。全ての課題を解決できる宇宙の根本原理を解き明かすために、韓国語、日本語、英語の聖書を並べながら真理を追い求めていかれたのです。
 文総裁の教えの核心は、非常にシンプルです。「平和の礎は家庭にある」と。家庭に平和がなければ国は崩れます。そのような家庭が集まっても、国は砂上の楼閣にすぎないというのです。神様が求めるのは真の家庭であり、真の家庭があってこそ国が守られます。
 その家庭は幸福の根源となります。幸福とは、山の彼方、空の向こうにあるのではなく、幸福の青い鳥が運んでくるのでもありません。自らの家庭で見いだし、積み上げていくものなのです。
 文総裁が説かれた宇宙の根本原理、統一原理が記された『原理講論』の冒頭に、「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならない」(21ページ)と書かれています。
 初めてこの教えを聞いたとき、私は〝くだらない〟と思いました。(笑い)時間を取って聞くほどの価値があるのかと疑問に思い、四十分、耐えに耐えたことを覚えています。
 宇宙の根本原理だと語り、冒頭で幸福について述べているのですから、宗教、民族、時を超えて全人類が願う幸福に至る方案を教えてくれなければ真理ではないでしょう。したがって、統一原理は、誰もが絶対に幸福に至れる方案を示しています。しかもたった一言です。それが「ために生きる」です。皆さんは、この言葉を飽きるほど聞いたでしょう? ために生きる。この教えに触れた私たちには、そこにこそ本当の幸福があるということを証明する責務があります。
 人から愛され、人に大切にされることでも幸せを感じます。しかし、人間は本来、他者のために生きる中で幸福を発見するというのです。
 精神科医、心理学者であった、ヴィクトール・フランクルという人がいます。彼は、ナチスによって収容所に入れられました。その体験がつづられ、日本では『夜と霧』というタイトルで出版されています。彼は約三年間の収容所生活を経て、次のようなことを感じ、悟ったといいます。
 〝生きることや死ぬことの意味を求めて、私たちはもがいていた。ただひたすら、かけがえのない誰かのために生きる人は、あらゆることに耐えられる〟
 幸福は、〝どこかにあるはずだ〟と思って追い求めていくものではありません。目の前の人のため、あるいは、より大きな目的のために、ひたすら生きたときに、ふと、幸福に包まれた自分がいることに気づくのです。

怨讐は、親なる神様の願いや心情に立たない限り超えられない

 家庭は平和の礎であり、幸福の基地です。夫は妻のために、妻は夫のために尽くし、親は子供のために完全投入し、子供は親を喜ばせたいという思いの中で生きるところに、真の幸福があります。そして、家庭を超え、地域、国、世界のために生きるという価値観を貫いていくとき、より大きな幸福が訪れるということを、生涯をかけて、文総裁と令夫人の韓鶴子総裁は教えてくださいました。
 怨讐を超えるということは、どんなに高い壁であっても、その怨讐のために生きる以外に超える道はありません。私たちはそのことを、文総裁の日本での一挙手一投足や、その生涯を通して学んできました。
 私はかつて、七年間にわたって下関と深く関わったことがあります。当時、韓国からクリスチャン学生を招き、日本のクリスチャン学生と交流するプロジェクトに責任を持っていました。日韓のクリスチャン学生が一つになり、両国の歴史を超えていくというテーマが与えられていたのです。もちろん、文総裁のご指導のもとで動いていたプロジェクトです。
 日本でクリスチャン学生を集めるのは本当に大変でした。自分の周りにはいなかったので、街角に立ってひたすら「クリスチャンですか?」と声をかけ続けました。そして、運良く出会えれば、「韓国からクリスチャン学生たちが来るのですが、一緒に交流しませんか?」と誘います。皆、最初は「いいですね」と言ってくれます。しかし、研修を通して日韓関係の歴史を知り、韓国人の心の世界を知るうちに、一人、二人、三人と去っていきました。結局、「いいですね」と言った十人のうち九人は去ったと思います。〝そんなに重い歴史を背負えない〟ということでした。
 それでも、残った学生と共に、韓国のクリスチャン学生たちと向き合いました。彼らは、東京から下関までを一週間かけて巡り、寝食を共にしました。訪問場所は、韓国側の要望に応えるようにします。訪れた場所ごとに、さまざまな課題について語り合いました。そして、どうしても行きたいと要望された所があります。広島です。彼らは、「広島に韓国人原爆犠牲者慰霊碑があるから、そこに連れていってほしい」と訴えました。
 その慰霊碑は、今は平和記念公園の中に設置されていますが、当時は、公園から川を隔てた場所にぽつりと建てられていました。車が行き来し、排気ガスをかぶりながら、寂しいたたずまいをしていたのです。そこに行きたいと言われ、私の胸中は複雑でした。
 韓国のクリスチャン学生一行が約七十人、日本のクリスチャン学生が五人だった交流プロジェクトのときのことです。
 寝食を共にして打ち解け合い、和気あいあいとした雰囲気が、この慰霊碑の前でバスから降り立つと一変しました。韓国の学生たちが皆、「アイゴー、アイゴー」と泣き始めたのです。慰霊碑の周辺は小石が敷き詰められた石畳になっていました。彼らは、拳で石をたたきながら大声で泣いていました。日本の五人の学生は戸惑うばかりです。
 さらに、韓国人学生は聞いてくるのです。「あなたはこれをどう思う」と。「日本の国民にされて、同じように被爆し、同じ痛みを受けているのに、どうして朝鮮人はここなんだ! どうして日本人は、あの広い公園の中なんだ!」と。そのように言われるのは分かっていましたが、受け止めるのは大変なことでした。
 私たちは、広島でこのような衝撃を受けて、下関に到着しました。そこで一夜を過ごすときに、韓国から学生を引率してきた大学教授から、印象深いメッセージを頂きました。
 この方はお年を召していたので日本語を話せました。しかし、すらすらしゃべれるにもかかわらず、入国してから下関に至るまで全く日本語を使わなかったのです。ですから私は、この先生は日本語を話せないのだと思っていました。ところが、夕食を終えて持たれたお別れの席で、突然、日本語で語り始めたのです。韓国の学生は通訳を通して聞きました。
 「私はクリスチャンです。生涯、神の命に従って生きてきました。敵を許せとおっしゃるので、どんなときにも許してきました。『下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』(マタイ五・40)とありますが、私はそれ以上のことをしてきました。でも、日本に対するこの思いだけは、神が知ってくれていると思いました。まさか日本まで許せとは、神はおっしゃらないだろうと、ずっと思ってきました。しかし、日本人に触れたり、寝食を共にする五人の学生たちを見たりするうちに、私は心から悔い改めたのです。ここにも神がいたと。神は、日本人も愛していらっしゃるのだと、ここに来て知りました。私は神に、どれほど痛みを与えてきたことでしょうか」
 その場にいる者の目には、涙があふれていました。日本人が決して通過することのできない心情世界が吐露され、怨讐というものは、神様を親とし、その願いや心情に立たない限り超えられないのだと実感しました。愛の根源であり、平和の根源である父母の心情。ここに立ち返らなければ、怨讐を超えることは簡単ではないと改めて感じています。

日本を誰よりも愛してきた文鮮明総裁、韓鶴子総裁

 文総裁は本当に日本を愛してこられました。しかし、日本のマスメディアは、文総裁に「反日」のレッテルを貼り、韓総裁のことも同様に報道しています。
 文総裁は世界宣教の先駆けとして、日本に一人の宣教師を送られました。最初の宣教国に日本を選ばれたのです。当時は国交がなかったので、簡単には入国できません。その日本に、命を懸けて向かうように諭して送られたのが、崔奉春先生、日本名で西川勝先生です。貧しい環境の中で韓国の教会員たちが借金をして宣教費用をつくり、日本に送り出してくださいました。もし、文総裁が反日であれば、このようにされるでしょうか。
 そして、日本に国際勝共連合を創設されました。世界中に共産革命が燎原の火のごとく広がっていく中、日本でも革命前夜と思われた一九六八年に国際勝共連合を創設し、真っ向から共産主義と向き合うように指導されました。「命を懸けて国を守れ」と。
 日本には、家庭連合の信仰を持つ韓国の女性たちが、数多くお嫁に来ています。国際結婚に伴う困難さは言うまでもないでしょう。特に韓国人にとって、怨讐国家の日本人と結婚するというのは簡単ではありません。しかし、本当に怨讐を超えるためには、そこまでしなくてはならないのです。
 天の願いを受け止めた女性たちが、祝福結婚を受けて来日しました。彼女たちは、言葉が通じない国で、韓国に対する偏見を感じながらも、夫や子供たちを愛し、夫の親族に尽くし、日本を愛する努力を重ねています。今も、この瞬間も、変わらず投入しているのです。もし反日なら、愛する娘たちを怨讐国家の日本に送りますか?
 また、韓国人の牧会者たちを日本に送られました。韓国の教会員たちの指導を置いてでも、そのようにされたのです。韓国人牧会者たちは、一人でも多くの日本人を天につなぐために、日夜、み言の種をまいています。
 文総裁が亡くなられて、すでに十二年がたとうとしています。残された韓総裁は、ご長男のお子様、いわゆるお孫様の嫁として、韓日家庭に生まれた子女と、日日家庭の子女を迎えました。長子直系に日本人の血を迎え入れたのです。日本を愛していない限り、そのようなことは絶対にできないでしょう。
 マスメディアが、文総裁ご夫妻に向かって叫ぶ「反日」という言葉は、実体とはあまりにもかけ離れています。おふたりの日本に対する愛の投入は、一瞬たりともやむことなく続いています。

父母の心情を抜きにして、平和の構築はありえない

 この書籍は、韓総裁の自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』です。文総裁の自叙伝と共通しているのは「平和」というテーマです。おふたりは、平和の基地は家庭であり、家庭における平和の根源は「父母の心情」であると明かされました。ここに平和の原点があるのだと、生涯をかけて教えてくださったのです。
 多くの方々が、文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻を「真の父母」と呼びます。もちろん、私たち家庭連合の兄弟姉妹もそのように呼びます。その生涯を思い返すと、「父母」という言葉以外で表現することはできないのです。
 文総裁は、「私の生涯を見れば、父母であることが分かる」と語られたことがありました。
 北朝鮮に、なぜ死を覚悟して入っていかれたのか。もう帰ってこられないかもしれないのに、あえて平壌に向かわれた理由はただ一つ、父母だからです。そこに愛すべき子女がいるからです。北朝鮮を支配する思想を憎んでも、人々を憎んではなりません。彼らも神様から見れば取り戻すべき子女だからです。
 共産主義の牙城であるソ連に、なぜ命の危険を顧みずに入っていかれたのか。愛する子女がいる地に、父母として行かざるをえなかったからです。私たちはそのことをよく理解しなければなりません。文総裁、韓総裁の生涯路程を父母という視点から見ると、また違って見えてきます。そして、そこにある真実にたどり着けるのではないかと思い、改めて共有させていただきました。
 〝平和はいかにして築くことができるか〟。父母の心情を抜きにして、平和の構築はありえません。これは間違いありません。
 若い世代を前にして、よく話す体験談があります。
 かつて、「ミッドナイトパーティー」というラジオ番組がありました。もう三十年以上も前のことです。夜の番組でしたが、昼間に再放送されていたので、運転しながら、よく聴いていました。
 その中で、リスナーから届いたはがきを読みながら音楽を流すコーナーがあったのですが、そのはがきは、両親が離婚した子供たちが投書したものでした。そして、ある投書に、「本当にそうだ!」と共感して涙を流したのです。このような内容でした。
 「私はお父さんから、『一』をもらっている。お母さんからも『一』をもらっている。でも、私の中でそれを足して『二』にはできない。『二』は、『二』にしてからもらわない限り、『二』は永遠に分からない。きっと世の中にはそういう子がたくさんいると思う」
 十六歳の女の子からのはがきでした。この子は、両親が離婚し、お父さんからも愛を受けているし、お母さんからも愛を受けてはいるけれど、幸せではなかったのでしょう。
 〝いくら、「一」と「一」をもらったとしても、自分の中でその二つを足して「二」にはできない〟。私たちの命は父母から生まれました。お父さんからだけでもなく、お母さんからだけでもありません。父母が一つになり、そこから生まれて良かったと心から思える所こそ、平和の基地であり、平和の原点になりうるのです。そのような父母の心情に触れる子供たちは本当に幸せです。
 私たち親世代は、家庭の価値を左右するのが夫婦であると自覚し、夫婦が一つになった世界を通して、子供たちが、「この父母のもとに生まれて良かった」と心から言える家庭の礎をつくっていかなければなりません。私も日々、文総裁のメッセージを学びながら自戒しているところです。

「ために生きる」生涯を貫かれた文総裁ご夫妻を慕って歩む

 きょうは、皆さんの前で偉そうに、「神様を否定する共産主義、霊界を否定する共産主義」などと言ってはいますが、実は、私は大学時代に、気づけば共産主義にかぶれ、「国は腐敗している! 大学も腐敗している!」などと叫んでいました。大学二年の夏に統一原理に触れて、キリスト教を学ぶようになり、昼間は共産主義、夜はキリスト教、そんな雰囲気で過ごしたのです。
 共産主義に走っていた私が、振り返って思うのは、どんなに正義を掲げたとしても、その動機は憎しみや恨みであるということです。そこを超えない限り、どんなに正義を語っても平和はつくれません。ですから、結果的に学生運動は破壊に向かいました。大学の講堂が焼かれる映像を見たことがあるでしょう。
 本当の平和は、怨讐を許し、怨讐を愛するところからしか生まれてきません。平たく言えば、「ために生きる」ということです。改めて、この生涯を貫かれた文総裁、韓総裁の教えを胸に、一日一日を大切に生きていかねばならないと思わされます。
 文総裁が日本で最初に足を踏み出した下関。天から記憶され、家庭連合の歴史が百年、二百年、三百年たっても、その記憶から決して消されることのない下関です。山口の皆さんが、文総裁ご夫妻の平和思想に立ち、平和の在り方とその基本的な教えを、実体をもって発信できるように願い、私のメッセージとさせていただきます。ありがとうございました。

〈祝祷〉
 尊貴なる天の父母様(神様)、勝利された天地人真の父母様、ご聖恩、心から感謝申し上げます。
 きょう、このように時間を頂き、天が永遠に記憶される、そして何よりも、この日本が感謝し、忘れてはならないこの下関の地に、あなたが導いてくださったことに心から感謝申し上げます。
 今朝、崑崙丸の慰霊碑の前で追慕の時間を持たせていただきました。文鮮明総裁が日本で真理を解き明かし、韓国への帰途で乗られる予定だった崑崙丸。文総裁は何かしら天の警告を感じ、乗船されませんでしたが、出港した崑崙丸は米軍によって撃沈され、五百八十三人の命が海の中に沈んでいきました。
 単なる日米の戦争の犠牲者とも捉えることができるかもしれませんが、私たちは、神様が永遠に記憶され、そして、文総裁ご夫妻の生涯路程の中で、必ず崑崙丸の事件は語り継がれると知っています。この下関の兄弟姉妹たちが、追慕の思いを失わず、毎年、慰霊の時間を持ち続けていることを見ても、貴く価値ある命だったのであり、永遠に記憶されると改めて思うのでございます。
 この山口を、どうぞ天が記憶してください。ここにまかれた命の種が、そして、み言の種が、より大きく広がり、本当の平和とは何か、本当の幸福とは何かを、実体で示すことのできる新しいうねりを生み出せるように、あなたが祝福し、導いてくださいますことを心からお願い申し上げます。
 今や全世界に、文総裁ご夫妻のみ言の種は広がっています。また、多くの命が天の前に生かされ、導かれています。「人類の真の父母」という言葉が人々に共通して語られるようになりました。正に人類の父母として、神様の心情を胸に歩み続けた真の父母様の生涯は、私たちにとって、帰るべき親の懐であり、自らの心を正すときに基点とすべき心情世界であると改めて感じています。
 この日本は、誰よりも日本を愛するために投入された、文鮮明総裁、韓鶴子総裁の心情に守られてきました。きょうこの瞬間も、思いを注いでくださっていることに心から感謝しています。
 父母の懐にあることの幸せを、また父母の心情の中にあることの幸せを、もう一度かみしめながら、真なる幸福を、真なる平和を、私たちの実体を通して万民に示すことができるように、心からお願い申し上げます。
 私たちは、いかなる環境にあっても、真実をねじ曲げることはできません。そこに、もし試練があるならば、その試練の向こうには、待ち受ける大きな祝福があります。歴史の中に、迫害を受けて滅び去った宗教はありません。迫害されればされるほど発展してきたのが、拡大してきたのが宗教です。今、私たちは、真実を知った群れとして、堂々と誇り高く、父母の前に息子、娘として恥ずかしくない歩みを全うしながら、未来世代と共に三世代が一つになって家庭理想を実現してまいります。どうぞ、あなたの祝福の中で完成させることができますようお祈り申し上げます。
 きょうは、多くの兄弟姉妹たちと共に真の父母様を偲ぶ、貴き時間を頂きました。どうぞ、これから、どんな環境圏にあっても、常に共にあり、導いてください。そして、小さな声であっても、小さなささやきでも、あなたの前に祈りがあるならば、どうぞ、その祈りに耳を傾け、その祈りに向き合ってくださいますよう心からお願い申し上げます。