「神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである」(『原理講論』169ページ)
真のお父様が聖和されて以降、真のお母様は事あるごとに、神霊と真理に満ちた草創期の教会に立ち返ることを強調してこられました。私たちは、真の父母様が強調される「神霊と真理」という言葉をどのように理解し、どのように向き合ってきたのでしょうか。草創期の教会にはあって、今の教会には失われてきているものとは、何なのでしょうか?
神霊との共鳴
『原理講論』には、「神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識される」(168ページ)とあります。これは、本来、人間は霊人体と肉身の相互作用を通して、霊界の事実を生理的に認識できるということです。そのためには、まず霊的五官の感性が磨かれなければならないということになります。
永生の世界である霊界の核心価値は「真の愛」であることを、私たちは学び続けてきました。霊界は愛を呼吸して生きる所です。すなわち、霊的五官の成長とは、愛を生命とし、愛に共鳴し、愛の喜びを感受できる力の成長です。
真のお父様のみ言に、「神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことをいうのではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です」(天一国経典『天聖経』792ページ)とあります。
霊界と人間世界、霊人体と肉身とを共鳴させる最も大きな力が神霊、つまり神様の愛の力であるということです。その神様の愛に共鳴できる心霊と知能の成長が、私たちの地上生活の大きな目的の一つです。
生心が求める「ために生きる」生活
一方、『原理講論』に、「真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識される」(168ページ)とあり、「生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である」(86ページ)ともあります。また、「生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分」(同)であるとされています。
私たち人間は肉身生活において、自身の霊人体の中心部分であり、本来、神様が臨在される生心が要求する生活を通してこそ、真理の実体に至ることができるということになります。
生心の要求する生活、それがすなわち真の父母様が生涯を通して教えてくださった「ために生きる」生活です。他者のため、国のため、世界のために生きる生活は、正に真理に至る道であり、自分自身の生心が納得し、自分自身が真理の実体に至る道のりでもあります。
イエス様は、み言自体を真理とは言わず、ご自身がすなわち道であり、真理であり、命であると言われました(ヨハネ一四・6)。真理は、単なる言葉ではなく、実体として結実しなければなりません。
神霊と真理は、私たちが「ために生きる」実践生活を通して愛の感性を育み、神様の愛の力と共鳴して初めて、自分自身の中に着地すると言えます。私たち自身が神霊と真理の実体とならなければならないということです。
堕落した人間にとって、それは簡単なことではありません。だからこそ、救援摂理の中で、神様は人間の心霊と知能の成長に応じて、内外の無知を克服し、神霊と真理を追い求めるよう促してこられました。
すでに私たちは、神霊と真理の実体であられる真の父母様をお迎えしています。そして真のお父様は霊界から、真のお母様は地上で実体聖霊として、私たちを導いてくださるという奇跡の時代を生きています。
「み言の目的は実体であり、実体の目的は心情である」(『御旨の道』282ページ)とあるように、神霊と真理が私自身に着地するその核心部分は、心情以外にありません。真理に基づいた地上生活を通して四大心情、四大愛の体恤を目指し、その成長過程において、神霊を感知できる共鳴圏を築いていくことができるのです。
今、真のお母様は天心苑祈祷を強調されます。祈祷は、捧げることそれ自体ではなく、天の父母様(神様)の心情、真の父母様の心情を、幼子のようになって必死に求め、天心との共鳴圏を築くところに意味があります。そのようにして啓発された心情が、私たちの信仰生活を、神霊と真理の実体にふさわしい生活へと導いてくれるのです。
神霊と真理は観念の言葉ではありません。「私」の生活の中で体感し、結実させるものなのです。