田中富広会長のメッセージ

「原理の復権」を果たし、み言の〝原子爆弾〟となろう!

「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである」(『原理講論』総序から)

 私たちが教会に導かれ、『原理講論』を手にして開いたとき、最初に目に飛び込んでくるのがこの一節です。格調高く、心の深奥に語りかけてくる文章に心揺さぶられた食口の皆さんも多いことと思います。何げなく書籍を読むのと変わらない軽い気持ちでページをめくる手が、一瞬にして、厳かな価値ある書物に向き合う、緊張感を持った手の動きに変わっていきます。

 宇宙を包み込むような視点から、自分のような小さな存在の心の奥深くまで見透かしてくるメッセージに引き込まれ、いつしか、自分がみ言を読んでいるというよりは、み言が自分を読み解いていることに気づかされます。

 総序の最終ページでは、「神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である」と証し、「神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれ」て勝ち取られたみ言であると、権威の根拠を示して締めくくります。

 わずか十八ページの総序ですが、全宇宙を包含するような壮大なスケールを凝縮しており、総序だけでも一つの宗教が成立するほどの霊的権威を持って、私たちに語りかけてきます。

 私たちの教会は、草創期から多くの諸先輩が、街角に立つときも、開拓伝道に赴くときも、そして共産主義者と向き合うときも、『原理講論』を片時も手放すことなく、真理の到来を叫び、再臨の時を訴え続けてきました。私たちは、人生観、歴史観、宇宙観、人間観など、多様な価値観があふれる混乱の中で、核心的な真理に出合うことを通して、迷路から抜け出すことができたのです。

 「いついかなるとき、命を懸けてみ言を伝えたことがあるか」(『御旨の道』240ページ)というみ言がありますが、正に血と汗と涙の連続の中で、命懸けでみ言を宣べ伝えながら絶対に手放さなかったのが『原理講論』です。

 今、私たちは改めて、統一原理のみ言を生活の指針に据えて、み言の価値を体感し、より多くの方に伝えていかなければなりません。真の父母様は「原理をどれほど知ったかが問題でなく、どのくらい実践したかが問題である」(同、239ページ)、「み言を心と頭だけで知るのではなく、体で分かって行いなさい。我々は、み言で武装された実体、すなわち、み言の原子爆弾とならねばならない。それゆえ爆発すべき目的地に行って不発弾となってはならない」(同、238〜239ページ)と語られます。

 「原理」を、伝道の入口でとどめてしまってはいけません。単なる伝道の道具としてはいけないのです。「原理」を生活の中で実体化させ、自分自身が「原理」の実体となっていかなければ、まさしく〝不発弾〟となってしまいます。

 「床に就くとき、原理を抱いて休み、起きるとき原理を中心として起きなさい。今まで皆さんは原理を知ったとしても、原理の活用法は研究しなかった。原理を活用する人は、原理的生活をする人である」(同、238ページ)

 統一原理は、個人完成においても、家庭完成においても、生涯の伴侶です。人生の伴走者ともいえます。

 私たちは訓読生活を通して、真の父母様が語られた多くのみ言を学びますが、往々にして自分が共鳴した部分のみで満足し、自分なりの納得感、自己満足で終わらせてしまいやすいところがあります。

 しかし、み言の一丁目一番地である統一原理に向き合う場合には、そうはいきません。真の父母様が、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、復帰された「原理」です。万民の生命の泉なのです。

 神霊と真理に満ちた教会づくりに向かって、原理講義が絶える教会にしてはなりません。「原理」が伝道の道具と化してしまうと、新しい対象者が来ない限り、教会から「原理」のみ言が消えていきます。「原理」は、み言の一丁目一番地であると同時に、私たちの信仰生活の一丁目一番地なのです。信仰歴が何年になっても、帰るべきところは「原理」のみ言であることを肝に銘じ、天一国創建の〝原子爆弾〟となってまいりましょう。